観心とは、我が己心を観じて十法界を見る。これを観心というなり

タイトルは、宗祖日蓮大聖人の主著・観心本尊抄からの抜粋です。自分の心の中に、さまざまな心持ちが内在していることを観察しなさいと仰っています。

そりゃそうだろう、と思われる方もいるでしょう。

でもここでいっているのは、「極刑に処されるようなことをする犯罪者の心」や「ノーベル平和賞を受賞する素晴らしい人の心」なども自分の心の中にあるのだというのです。

私たちは、犯罪の報道を見ると、義憤を起こします。当たり前ですが、なんてことをするのだと思います。報道された犯罪者と私は全く別物と思います。当然だと思います。別なのですから。しかし、大聖人はこういう犯罪者に、あなた(人間なら誰でも)がなる可能性があると知る必要があると説くのです。

オレオレ詐欺にあった人を見て、「なんでこんなのに引っかかるのだ」と言っていた人が、引っかかったという話があります。きっと自分は引っかかることなどないと思い込んでいたのでしょう。この思い込みから油断が生じ、結局引っかかったのだろうと思うのです。

私たちは心の中に、極悪から極善の全ての可能性を含んでいる。このように自分の心を見ていくこと。これを観心というわけです。けっして世の中に起こっていることは対岸の火事ではないということです。何かきっかけがあれば、この私が世を混乱させる、世の中の人から怒りをかう行為をする可能性があると常に認識していくこと。これがタイトルにある文章の意味ではないかと受け取っています。

もちろん良い方向にいくのも然りです。この私が素晴らしいことをして、世の賞賛を浴びることもあるのです。

 

きっと人間は、自分が想像する以上のことが出来るのでしょうね。大聖人は、この文を通して私たち人間一人ひとりの生きる力の可能性を広げたかったのかも、とおもうのです。あなたは、生きている限り、なんでもできる。失敗してもやり直せると言いたかったのではと。その時、悪いことも出来るのだから、しっかり自分を見失わないようにと戒めもされているのですが…。

 

この観心ですが、これを修行として行う時、当教会では南無妙法蓮華経のお題目を声に出してお唱えします。どうしてこれが観心となるのかは、大聖人が随所にお示しです。このお示しに従って、当教会は皆様にお題目修行の場を提供しています。ご興味のある方は、ご連絡の上、ご参拝下さい。多くの皆様にお題目を唱えて頂ければと願っています。

最後までお読み下さり、ほんとうにありがとうございます。

 

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