もう一度、一つに・・・

また教えについて書いてみます。

当教会の宗祖・日蓮大聖人は過激だとよく言われます。信仰の自由を有する現代においては、このように思う方が多いようです。ただ本当にそうなのかなと思うのです。

何故かというと、大聖人は常々「諸宗は本尊に迷っている」と仰っているのです。本尊とは、一番尊いものことです。これは唯一つ。キリスト教のゴットのように、たった一つ。絶対にぶれてはいけないのです。変わってもいけないのです。普遍的で永続性があるものなのです。こういうものとして崇めなければ、本尊とは言えないのです。

仏教は一つだという人は多いです。だったら本尊も一つにならないとおかしいのではないでしょうか?一つの会社に二人も三人も社長がいたら、指揮系統が乱れ、会社は分裂するはずです。同じように仏教が一つならば、一番尊い本尊が一つでなければいけないのではないでしょうか?

宗祖のご存命のときは、鎌倉新仏教が起こった時。各宗派の祖師たちは自分の勉学・修行を経て教えを完成させたのでしょう。人々の苦しみを救おうと活動したのは凄いこと。そしてどの祖師も偉人だなと思います。さすがに祖師になるだけあるなと、彼らの著書を読むと、その深い思索に驚かされ、尊敬もするものです。

ただです。日蓮大聖人を祖と仰ぐものとしては、だた・・・、本尊をそれぞれ勝手に立ててしまったなと思えてなりません。仏教を一つと見て、一つの本尊を立てた上ならば、いろいろな教えがあっても体系を分裂させることにはならなかったでしょう。でも本尊をそれぞれで立ててしまうならば、仏教の一体性は粉々になってしまうのではないでしょうか?

 

日蓮大聖人は、仏教の本尊を仏教の創始者・お釈迦様(釈迦牟尼仏)だといいました。この方が仏教の中でもっとも偉いのだと。ちょうど皆様がお勤めしている会社で、社長が一人のようなものです。専務や部長などは一番偉くはないのです。同じようにいくら仏典に登場するからと言って、お釈迦様以外を本尊とすべきではないと主張したのです。仏教は一つの体系として、人々に役立つものだ。だからこの体系を乱すような教えは間違いであると主張したのです。

大聖人は過激なのでしょうか?仏教が分裂して力を失くすことを憂いての魂の叫びといってもいいものだったのではないかと当教会は受け取っています。

 

筆に任せて書きました。最後までお読み下さり、本当にありがとうございます。

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