初心忘れるべからず

1年半ほど前から、週一日、習い事を始めました。この頃は、先輩ばかりでしたが、どんどんと新しい人が入ってきて、私もいつの間にか中間管理職のような状態に。それでも先輩たちに教わることが多いですが。

先日、先生が新しい人と一緒にやるようにと言われたのです。私がすでに習い終わったことを新しい人とともにやるわけです。

いざやってみると、細かいところが記憶違いだったりして、うまくできません。自分のほうが早く入ったからなどと思うことがすぐにできなくなりました。

本当に、初心忘れるべからずという言葉通りですね。自分はまだ習っている段階なのだと再確認をした次第です。

当教会が信奉するお題目・南無妙法蓮華経の教えはこの初心を大切にする教えだと考えています。

お題目を唱え始めたその時を「下種結縁(げしゅけちえん)」といいます。お題目は種だというのです。何の種かというと、仏様になる種です。成仏の種なのです。

日本の仏教は、誰でも仏になれる・成仏できるという立場です。誰でも仏様になれる要素を心に含んでいると捉えます。そしてこの心に含んでいる仏様の要素をどうやって実現するか、表面化するか、つまり自分と一体化させるかの方法論が各宗派で違っています。

譬えば、念仏系の宗派では、まず娑婆世界(私たちが生きているこの世)から極楽世界(天国・浄土)に生まれ変わり、そこで修行して仏になろうと説いているものと思われます。娑婆世界では思うように修行など出来ないから、まず極楽に生まれ変わることを目ざし、成仏(仏になること)はその次にと、二段階で目的を果たすことを考えるのです。

このようにいろいろと私たちの心の中の仏を現す教えが説かれています。

当教会のお題目の教えは、ちょっと変わった考え方かもしれません。それは確かに私たちは誰でも心に仏様の要素を含んでいる。ここは認めるけれどあまり重要視しません。それよりお題目が仏様の要素なのだと考えていきます。だからお題目のこのような性質を信じて唱えると、私たちの心にその性質が植えられるのだと考えます。先程書いた下種結縁という考え方ですね。

有象無象のひしめく私たちの心に、はじめから内蔵している仏の要素を見つけるのではなく、新たにお題目・南無妙法蓮華経を信じ唱えることを通して、仏の要素を植え付けようと考えるのです。

そしてこの下種をした人は、自分は仏様の要素を頂いたのだからと考え、日々の生活をすることになります。お題目の神秘の力で仏になるのではなく、お題目を下種している自分という自覚を持って生活することで仏に近づこうとするのです。ちょうど種を植えたら、水を撒いたり、肥料をあげたり必要があるように、下種結縁した以上、自分の行動を律する必要があるのです。

おそらくお題目信仰で生きている間に仏になることはないと考えます。「ない」といってしまうと語弊がありますが、仏の要素をお題目信仰によって、たった今初めていただいたのだという気持ちが重要だと思います。

お題目を信仰したから凄い・偉いのではなく、お題目を通して、はじめて仏様に成るための道が開かれたのだという初心者の気持ちが尊いのだと考えたいのです。ここから、いまお題目を唱えたここからスタートするのだという気持ちです。

この初心者の気持ちを常に失わないこと。これがお題目信仰には必要だと思っています。

一年半ほど先に習ったことも、忘れてしまうのです…。初心者としての気持ちは大切だなと思った次第です。

思ったことを少し書いてみました。最後までお読み下さり、本当にありがとうございました。

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