わからないもの・見えないものを、わからない・見えないと素直に言える・思えるように

仏教は、仏様を目指す宗教です。仏様の悟ったこの世の真理を、私たちが同じように悟るために説かれた教えです。つまり仏教は、私たちを仏様と同じようにすること。之を目的としていると言えます。

・・・容易ではありません。なにせ人類の歴史において、私たちと同じように人間から仏になった人物は、お釈迦様ただお一人ですから!一人でもいるのですから、不可能ではないのですが…、私たちが悟って仏様になるのは限りなく0%に近いと言えましょう。

それならば非効率だと捨ててしまいますか?意味がないとしてしまいますか?

私は自分なりに、仏様の悟りというものを考えた時、タイトルの言葉に行き当たるのです。わからないものをわからないと素直に認めること。見えないものを自分には見えないと素直になること。これが必要なのではないかと思うのです。

そもそも真理というのは、そうやすやすと私たちの前に全貌を現してくれるものではありません。私たちもその真理とやらの中で生きているわけですから、真理の全貌を見るには私たちと真理を切り離し、客観的・俯瞰的にならないといけないと思われます。

お勤めの方が、ご自分の会社の全社員のことを一々知ることはないと思います。部署が違ったり、立場が違ったりすれば、同じ会社で勤めていても名前を知ることだってないと思います。

真理についても同じ。私たちは自分のおかれている立場において、この真理が自分の良い方向に働くことだけを願っています。全貌を知ることなど欲していないのです。

私たちは自分に必要な部分において真理を知りたいと考えている。ここが重要だと思います。つまり全貌ではなく(自分に役立つ)部分を知っておきたいのです。誰でもそうなのだと思います。この誰でもも重要でしょう。

「衆盲、象を見ず」という言葉があります。

目の不自由な方々が、隣町に来た象という動物の感想を言い合うのです。目が見えないので、それぞれ象を触らせてもらっています。

こういう状態で、それぞれ自分の感想をいうのです。有る人は「象って小さくてかわいらしいね」といいます。これは象の体に似合わない小さな尻尾を触ったからです。この尻尾を象そのものと考えての感想です。

有る人は「いやちがうよ。象はとっても平べったく大きいんだよ」といいます。これはあの耳を指しています。この方も耳を象のすべてだと思っています。

こうしてそれぞれが自分の触れた象の感想を言い合います。皆さん、自分が触れたところをもって、象そのものと考えながら…。

部分を見て、それが全てだと見てしまう…。こんな状態に私たちはいるのでしょう。仏様は、私たちと違い、これは部分であって全体ではないと思うことが出来るのでしょう。

先程の話、感想を言い合った皆さんが、仏様のように自分の触れたところが象の一部分だと知っていたら、象の全体像に行き着いたのでしょうね。実にもったいないなと思うのです。

私たちは一人では真理の部分を知る以外出来ないのです。みんなでこのことを知りつつ、話し合うことで真理の全貌が浮かび上がってくるのでしょう。これ以外、真理を知ることは出来ないのでしょう。

仏様のお悟りとは、ひっとしたら自分一人では真理の全貌が見えないと素直に思えるようになることだったのでは、と愚案したりしています。

謙虚になり、素直になること。これが悟りを求める私たちのあるべき姿なのかもしれませんね。なかなか、このようにはなれませんが…。

最後までお読み下さり、本当にありがとうございました。

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