「仏壇も位牌もいらない」と、…言われたのです

先代の時代からご縁を得て、親しく付き合っていた方が亡くなりました。そのお子さんが喪主となり、葬儀・一周忌が終わりました。

その時、この方に

「世間体もあるし、親の葬儀と一周忌まではやりました。でも自分は無宗教ですから、これ以降の儀式はしないつもりです。お墓も霊園ですし、お寺さんとのお付き合いもこれまでかと考えています。そこで仏壇も位牌も納めたいのですが、どうしたらいいでしょうか」

と言われたのです。今はこの方と同じような考え方をする方は多いのではないでしょうか。

当教会からそれはダメですよということは難しいと考えています。今の日本は信教の自由がありますし、檀家制度に対する考えも変わってきています。無宗教と言っている人に祟られますよなどと言ったら、これは脅し以外の何物でもありません。実際、お施主様はしっかりと生きてこられた方ですから祟られることはないでしょうし…。

正直、お寺としては、縁ある方が減るということですから困ります。でもだからと言ってダメですよとは言い難い…。なんとも…なんともの話です…。

こういう方にとっては、仏壇も位牌も無意味なものなのでしょう。魂抜きをといっても、???となることでしょう。一応、故人が大切にしてきたものですので、魂抜きのお経をあげてから納めてくださいとは言いましたが…、その後どうしたかは分かりません。

これも自由というものなんでしょうね…。

仏壇や位牌、または仏様や神様、霊魂などに意味を見出すのは、その人の気持ちでしょう。これが本当のところでしょう。

そしてなぜこういう気持ちを持とうとするのかを考えたいのです。霊がいるとかいないなどの答えの出ない議論はさておいて考えたいのです。

葬儀、墓、仏壇・位牌、こういうものは故人を大切にしようという気持ちを何らかの形・行動に表すために使われるものです。何故かというと人間は考えているだけでは満足しませんから。考えていることを何らかの形にできて初めて満足が得られますから。つまり故人を大切にしようとしても、その人はすでに亡くなっていてこの世にいないのです。そこでお墓や仏壇、位牌などを用い、通夜・葬儀、年回忌法要などを行うのです。故人に代わるものとして使用していくのです。

自分は故人を大切に思っている。このように考えてる人はたくさんいるでしょう。でもきっと思っているだけではないと思うのです。年に数度かもしれませんが、遠くのお墓にお参りしたりするはずです。忙しくてもお盆の里帰りなどを使ってお墓参りをしたりすると思うのです。里帰りした時に実家に仏壇があれば、お線香を立てて手を合わすはずです。つまり故人やご先祖様の代わりに使っているわけです。誰でも自然にやっているのです。

当教会は思うのです。大切だという気持ちは必ず行動となって表れるものだと。そして、その行動のために宗教儀式やいろいろな宗教的な道具があるのだと思います。

どう思うかはその人その人の考え方ではあります。ダメとは言いづらいと考えます。ただ私のように考えることが出来ることも知っていただけたらと思うのです。そしてできれば位牌もお墓も、通夜葬儀も大切な故人やご先祖様を供養するときに有用だなと思っていただけたら、とてもうれしいです。

ご縁を結ぶ人、また去る人。檀家を持たない当教会は昔からこのような感じで活動しています。ただ・・・去る人がいるのはやっぱり寂しいものです。自分の力不足を実感するものです…。

最後までお読みくださり、本当にありがとうございました。