罪障・罪、そして仏性などについて

宗教に罪はつきもの

宗教を少しかじってみると、必ずと言っていいほど、人間の罪ということが出てきます。私たち人間は、人間ゆえに罪を持っているというのです。…なんとも救われない話です…。

罪とは、自分の不完全さを表すもの

でもこの罪は、犯罪とは違います。別に私たちが何か悪いことをしたということではないと考えます。

それよりも、私たち人間は誰でも完璧たりえない存在だということを表したものととらえたいのです。

例えとしてあっているか分かりませんが…、パズルのピースのようなものを私は思い浮かべます。宗教というものは、必ず救いの状態も説かれています。この救いの状態こそ、パズルの箱に書いてある完成図です。私たちはこの完成図を作るためのピース。へこんだり、飛び出たりしてへんてこな形です。へこんだところは、別のピースからそれを補ってもらいます。飛び出たところは他のピースのへこみを補う。どのピースもこうして完成図に貢献するのです。何がいいたいかというと、私たちは仏や神のように完ぺきではない。人と補いつつ、補われなければいけない存在ということ。自分一人で何でもできるわけでないので、つまり不完全です。こういう存在だと理解させるために罪という概念が説かれているのだと考えたいのです。

罪(不完全さ)を知ることで、自分にも非があるのではという思いを抱くことが大切

私たちには罪がある。不完全な存在である。

このように思うことになれば、次は自分は正しいのか?という考えが出てくることでしょう。反対に言えば、相手の言い分が正しいかもしれないという考えが出てくるでしょう。

この考えが大切だと思います。これを謙虚というのだと思います。このような考えになれば、人の話を聞こうという姿勢が出来上がるでしょう。そして真に話し合うことが出来るようになるでしょう。

日本仏教は罪の他に仏性も説いている

謙虚というのは、仏教でいえば仏性(ぶっしょう)ということだと考えます。私たちの中にある仏様のような良い性質ということですが、簡単に言えば、良い心・良い心持ということ。仏性を私たち人間は誰でも持っている。罪と一緒に持っている。これが日本仏教の基本的な考え方です。

罪を意識することで、仏性が自分の中にあることを実感する

自分だけでは何もできない。周りを信じ、協力しなければ何事をもなしえない存在。私たちはこのような罪(不完全)な存在です。

こうを自覚させるため、宗教は罪というものを説いています。

そしてこの自覚は、私たちの中にある謙虚さを呼び起こします。この謙虚さを日本仏教では仏性といい、とても大切にします。なぜならば、仏性こそ私たちをより良く導く原動力だからです。

どちらかが一方的に悪いということはない

罪を意識し、仏性に目覚めると、おそらく争いごとは少なくなる(なくなる)のではないでしょうか。

自分は誰かを頼らなければならない不完全な存在だと謙虚になれば、当然、相手を一方的に非難するようなことはなくなるでしょうから。言葉を変えれば、敵というものがいなくなるでしょうから。

争いが起こるとき、必ず自分が絶対正しくて、相手が悪いとなります。相手も同じでしょう。

ここには仏性はありません。これでは話し合うことはできません。つまり物事は争う以外、白黒つける以外に収まりません。

これは、意識はしていないでしょうが、罪(不完全)な存在であるということを忘れ、仏性を心の奥深くに眠らせてしまっている状態と言えます。とても危険だと思います。

罪を知り、仏性を開発する。これが仏道なのでしょう。こう考えるならば、坊主だけでなく、誰もが行うものと言えます。

自国の利益だけを考える政治家が堂々と発言する時代になりました。選挙に尽力したものを優遇するのは当たり前といった政治家もいるとかいないとか…。

今はこのような時代です。宗教が説く罪(不完全)ということをよくよく見つめていきたいものです。そして心の奥深くに眠っている仏性(謙虚さ)を目覚めさせたいものです。

このような目覚めを目指すのが仏道です。修行です。信仰です。当教会ではこのように考えています。

以上のように見てくるならば、仏道は坊主だけがやればいいものではないでしょう。私たち人間は誰でも仏道を行うべきなのでしょう。そして罪を知り、心の奥底にある仏性を開発する必要があるのでしょう。

自分という存在の不完全さを知り、その上で心の中に眠っている謙虚さを目覚めさせていきたいものです。

南無妙法蓮華経と声に出して唱えるお題目修行の目的は、以上のことと言えます。ご興味がありましたら、一緒にご修行を致しましょう。気軽にお問い合わせくださいませ。

最後までお読みくださり、本当にありがとうございました。