まず臨終を習って後に他事を習うべし

日蓮大聖人の著書にタイトルのような言葉があります。

臨終とは死のこと。人は誰でもいつか必ず死ぬということ。このことを心に、頭に、体に浸透、焼き付けておくことが、生きていきために何より大切だとおっしゃっています。

人が誰でも臨終するなんて知っていると言葉が返ってきそうです。本当にその通り。何のひねりもない、至極当たり前のことなのです。

でも、では臨終について、つまり自分をはじめ人は誰でもいつか必ず死ぬのだと、死についていつでも記憶して忘れないでいるでしょうか?

おそらく多くの方は、忘れるどころか考えもしないでしょう。だって死というのは人類最大の恐怖です。誰だってできれば近づきたくないのですから。考えることをしたくないのですから。

また現代は夢のような技術・高等医療が実現している時代です。少し昔ならば不治の病とされたものが治る時代なのです。本当にすごいことです。

人の平均寿命も延びています。身内のお葬儀に出るのは50,60過ぎて初めてというのはそんなにおかしな話ではなくなっています。

大聖人のおっしゃっている「臨終を習う」ということから、現代人はどんどんと遠ざかっているようです。

臨終するということを常に忘れない様にすると、今ここで生きているということがクローズアップされます。生きていられる今この一瞬が本当に素晴らしいことに気づくのです。この気づきで家族や友人、職場の同僚を見ることが出来たら…。きっと今までと違ってこれらの人々を見ることが出来るようになることでしょう。

そしてこの素晴らしさに気づいた上で、生きるためのいろいろなことを身に付けていこう。臨終を思うことで、生きている今が素晴らしいと心に焼き付けることがなによりもまず大切なのだ。私たちの生をより良くするためには!!

これがタイトルの言葉の意味だと考えています。

今、世界の危機となっているコロナ禍。ある意味、本当は常に隣り合わせの臨終を見つめ直す機会となっているのかもしれませんね。

仏教って何だろうと思ったのです。そしたら人に人は必ずいつか死ぬのだとしつこく知らせ、その上で今生きていることの素晴らしさに気づいていただくことではないかと。こんな考えをしていたら、そういえば大聖人の著書に同じような意味の言葉があったなと思い、ちょっと書いてみました。

最後までお読みくださり、本当にありがとうございました。皆様がコロナに罹らず、罹っても重症化せず、一刻も早く終息することをお祈りする次第です。