仏像というのは、とても良いものです。見ているだけでなんだか心が落ち着きます。なんでだろうと考えてみたのです。これは私の意見なのですが、ちょっと書いてみたいと思います。
まず表情は穏やかです。黙ってこちらを向いているだけ。でも何を考えているのだろうと不安になることもありません。すごいですよね。じっとこちらを見てくるのにちっとも不愉快にならないのですから。きっと邪気というものがないのでしょうね。
それから合掌されています。合掌していない仏像も多いですが、私は合掌している仏像が好きですので、この種の仏像について書きます。合掌は、尊敬の姿です。こちらに向かって、あなたを敬いますと示してくれているのです。日々、失敗を繰り返し、本来できることもやらないで過ごすことが多いこの私に対して、尊敬の念をもって向き合ってくれているのです。こう思うと、仏像は至らないこの私の全てを受け入れてくれているのだと安心できます。これが信仰の力の一つだと私は思っています。
なぜなら、私たちは他から認めてほしいのです。受け入れてほしいのです。どんなに自分が至らないところがあるとしても、今のこのままを認め、受け入れてほしいのです。皆さんもこう思いませんか?「あれはダメ、どうしてあなたはそうなの」と否定されるより、「あなたはあなた、私はあなたを尊敬するよ」と肯定される方がいいはずです。
ただこれを人間同士でするのはとても難しいです。人間同士、近所同士、職場の同僚同士、学校の級友同士、大きく言えば、国と国同士がお互いを認め合い、尊敬しあう関係になったらとは思いますが…、とても難しいですよね…。人間には一人一人感情というものがありますから。人間は好き嫌いや優劣をすぐ考えてしまいますから。
仏像はその点違います。お像ですから。黙って、その立ち姿で尊敬と受け入れを示してくれます。だからなのでしょう。仏像を拝むと何となく、こころがゆったりとするのは。
皆さんが、何かに悩み、また苦しんでいるようならば、仏像を拝んでみてください。きっと私のように心がゆったりしてくる経験が出来ると思います。
ただ本当は、仏像を拝んで心をホッコリさせるのではなく、この世にいるということで自分は認められ受け入れられているのだと思えるようになった方がいいのでしょうね。だってどんなに自分が悪いことをしたとしても、また至らない自分だとしても、この世(わたしたち人間にとっては地球という星)が怒って罰するということはないでしょう。怒り罰するのはいつでも私たち人間です。この世はどんなに環境破壊が起ころうと、深く深く穴を掘って資源を取り出そうが、黙っています。この世に生きる私たちが生きるために必要なものを分け隔てなく使えるようにただそのままにしておきます。手心を加えることはないのです。多く得をしようと争い互いを敵とするのは、私たち人間です。この世は、このようなありのままの私たちを認め受け入れています。あの人には良いものを、あいつにはこれでいいといったことは一切しません。
人間と違っていきものではないのだから当たり前ではないかと思うかもしれません。その通りなのでしょう。でもどんなことをしている人でも生きていられるというのは凄いことです。この世は、この私に生きていていいという環境を提供してくれているのですから。この環境に存在する私を含め皆さんは認められ受け入れられているのです。存分に生きなさいとお墨付きをもらっているのです。こう思い、先日書いた仏教の修行「誠実であれ」を実現できるように生きていきたいものです。
戦争を起こすのも人間、環境破壊も人間が起こすのです。業が深いという言葉がありますが、人間はこういう存在なのでしょう。すぐに物事が好転することはまず不可能と思うべきでしょう。だから順々に。まずは仏像を拝むことで自分が認められ受け入れられているという安心感を持ち、徐々にこの安心感をこの世に生を受けているという事実から導き出せるようになりたいものです。こういう心を少しでも持つ人が増えていくならば、と願うのです。なかなか難しいものですが…。