宗教・信仰というものへの世間の見方(価値観)が激変しています。
必要なものから、不必要なものといった具合に…。
信仰を持つというのは、正しいこと、世の中はこうあるべきだという信念のようなものを持つことといえます。
これはたとえが悪いですが、刃物を持っているようなものです。
私の、僕の、俺の信仰は正しい。
そして信仰を共にしていないものは間違っている。それではだめだ。同じ信仰を持てと迫っているようなものですから。
このような部分が宗教・信仰にはあると考えます。
信仰を持っている者同士が争うのは、お互いが譲ることができないからでしょう。
宗祖・日蓮大聖人は、この点、とても素晴らしいと思っています。
著作・開目抄に
「智者に我が義やぶられずば用いじとなり」
とおっしゃっていますから。
ご自分の信仰が誰かの指摘で間違っていると納得できたならば、信仰を改めると宣言しているのです。一方的に自分の信仰を勧めるのではなく、相手からのご自分の信仰への質問・疑問・指摘などをしっかり聞くことを常としていました。
なかなかできることではないと思いませんか?
一度得た信仰を改めるのは、相当難しいはずですから。
でもこのような姿勢で、宗教・信仰に向き合っていきたいと思っています。お互い刃物を突き付けるだけではなく、それを収めて話してみるといったような…。
痘痕も靨といいますし、一度好きになったものを改めるのは本当に難しいでしょうが…。