当教会は日蓮大聖人を祖を仰ぐ仏教教会です。なので、日蓮大聖人をお祀りしています。
いわずと知れた鎌倉新仏教の祖師のお一人です。
その主張は、仏教の創始者・お釈迦様のお悟りは妙法蓮華経(法華経)にのみ完全に備わっているというものです。
「教え」ではなく「悟り」がです。
教えというのは、言葉や文字を持って他に伝えるもの。
悟りは、その人の内面の心持。この心持を文字として伝えたものが法華経という経典だと。
つまり悟りから教えが出てくるのです。
法華経は悟り。ここから他の教えが説かれているのだと。
そしてなぜ教えが説かれるのかというと、法華経の悟りを理解する(信じる)ように導くためだと。
このような流れでお釈迦様は仏教を布教したといいます。
ただこれはお釈迦様という偉大な方がご存命な時のこと。この方がお亡くなりになり、長い年月が過ぎたならば、悟りを備えた法華経のみを信仰して、安心立命を得るべきだとおっしゃっいました。
世の中はせわしなく動いていて、仏教のことをじっくり考えることができる人はほとんどいない。ならば、悟りを得るのが仏教の究極の目的という原点に立ち返って、お釈迦様の悟りそのものを備えた法華経だけを信じればいいと。
他の教えは法華経に備わるお釈迦様のお悟りを理解し信じられるように導くためにあるのだ。忙しい世の中では、これらの教えから始めたのでは、法華経に縁を得るまでに人生が終わってしまう。お釈迦様が法華経こそ自分の悟りだとおっしゃっているのだから、これを信じ人生の安心立命をすればいいのだと。
こう強く、強く主張したのでした。
大変に…、とても、とても大変に、厳しい方だったと思っています。