があります。
「あの人は業が深い」などと使ったりします。
この業、
その人の過去の行い
といった意味で使われているようです。
すると…、
お題目信仰においては、
本来、この世は、
本佛・お釈迦様のお悟りを体現しているはずの世界なのに、
そうなっていないというのは、
なにを表しているのでしょうか?
と考えてみたいのです。
これこそ、私たち人間の業なのかもしれません…。
身近なことで考えてみると、
奇麗な家をだらしなく使うことで汚したならば、
それは住人に問題があるというようなこと…。
お題目信仰においては、
私たちは誰でも
本佛・お釈迦様の愛弟子。
生まれ変わり、
死にかわり、
この世界にやってきて、
本佛・お釈迦様の悟った真理を
この世に浸透させ、根付かせるように生きる存在です。
私たちが個々で持っている欲望や自己愛という足かせをかけられつつ。
このような足かせに自ら折り合いをつけ、愛弟子と自覚して生きよ。
これが本佛・お釈迦様が私たち愛弟子に伝えた教訓。
でも、この折り合いがなかなかできない…。
ここが私のような凡夫の業なのでしょう。
こう思うのです。
だから最初は
できる範囲で、
無理せず、
身近なところから
少しずつ、
与えられた教訓に従っていける自分になりたいと思うのです。
…思うのですが…。