法華経の中に「えりけいじゅ」というたとえ話があります。
漢字が難しく、変換できないので、ひらがなで書いてます。
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貧乏人と金持ち。
全くタイプが違う二人だが、妙に気が合い友達付き合いをしている。
あるとき、街でばったり会ったことから、金持ちの家で二人で飲もうとなった。いろいろと話をしながら心地よくお酒を飲んでいると、貧乏人、日ごろの疲れからか寝てしまう。
そんな時、金持ちにも緊急の仕事が舞い込む。
金持ちは貧乏人の日ごろの様子を聞き、かわいそうと思い、貧乏人が来ていた服の中にとても高価な宝を縫い込む。この宝に気づいて、どうか幸せになってほしいと願いながら。そして仕事に言った。
貧乏人、そうとは知らず、金持ちの家を出て、いつものその日暮らし。
月日は流れ、また二人は再会する。
貧乏人が前と変わらないのを見て、服に縫い込んだ宝はどうしたのだ?と聞く金持ち。なんのことだか分からない貧乏人。
金持ちは、事情を話し、与えた宝に気づかず、使わないとはなんたるお間抜けだと叱る。そしてこの宝はお前のものなのだから、きちんと使って幸せになるのだと諭した。
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こんな話です。
ここで出てくる宝。貧乏人の服の中に縫い付けられたものとは何でしょう?
これは、人として正しくありたいと欲する心だと思っています。またはこの心に従って完全に生きられるようになった仏様になりたいと思う心だと思っています。そしてこの心は、信仰を持つことで、その人の心に知らず知らずに内在されるのです。
ちょうど貧乏人が寝ている間に、金持ちが貧乏人の服の中に縫い付けたように!
この宝に気づいて、使用するようになった貧乏人は、以前のその日暮らしから解放され、人間らしい生活を手に入れることができたのです。
もう、貧乏人ではなく!
心の中にある宝、これが自分の中にもあるのだとはっきりわかるようになりたいものです。