授学無学人記品第九

書き下し文

爾(そ)の時に阿難(あなん)・羅睺羅(らごら)、而(しか)も此(こ)の念(ねん)を作(な)さく、我等(われら)、毎(つね)に自(みずか)ら思惟(しゆい)すらく、設(も)し授記(じゅき)を得(え)ば亦(また)快(よろし)からずや。

即(すなわ)ち座(ざ)より起(た)って仏前(ぶつぜん)に到(いた)り頭面(ずめん)に足(みあし)を礼(らい)し、倶(とも)に仏に白(もう)して言(もう)さく、世尊(せそん)、我等、此(ここ)に於(おい)て亦(また)分(ぶん)有るべし。唯(ただ)如来(にょらい)のみましまして我等が帰(き)する所なり。

又、我等はこれ一切世間の天・人・阿修羅に知識(ちしき)せらる。阿難は常に侍者(じしゃ)となって法蔵(ほうぞう)を護持(ごじ)す。羅睺羅は是れ仏の子(みこ)なり。

若(も)し仏(ほとけ)阿褥多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)の記(き)を授(さず)けられば、我が願(がん)既(すで)に満(まん)じて衆(おおく)の望(のぞみ)亦(また)足(た)りなん。

爾の時に学(がく)・無学(むがく)の声聞(しょうもん)の弟子(でし)二千人、皆、座より起って偏(ひとえ)に右の肩を袒(あらわ)にし、仏前に到り一心に合掌し、世尊を瞻仰(せんごう)して、阿難・羅睺羅の所願(しょがん)の如(ごと)くにして一面に住立(じゅうりゅう)せり。