大昔の話となりましたが・・・

当教会の宗祖・日蓮大聖人の時代。鎌倉時代です。この時代は移動はもちろん徒歩。一日に動ける距離はたかが知れていました。

大聖人の勉学修行時代から見守ってきた富木氏という方がいます。後に出家して、千葉県の中山にある法華経寺を開山されたほどの人物です。
この方のお母様が高齢でお亡くなりになります。大聖人は当時、身延山におられました。

すると、必然的に大聖人は富木さんのためにお葬儀ができないわけです。今でいう山梨県と千葉県です。すぐには行き来できない距離ですから。

だから富木氏は、自分でお母様を弔い、火葬をして、遺骨を持って身延山の大聖人のもとにお参りに行ったのです。自分で遺族を弔うということをしたのです。私が遺文を読む限り、大聖人のお弟子さんが弔いを行ったという事実は見つけられませんでしたから、富木氏自ら弔ったのだと思われます。

 

昔は家族の死を遺族たちが弔ったのでしょう。近所の人が協力することもあったでしょう。だから坊主が出てきて葬儀をするという形式では、必ずしもなかったのではないかと思います。

このようなところは現代と似ているのかもしれませんね。違うのは、現代は無宗教(無信仰)で死者の弔いをするところでしょう。死者の霊魂を導いてくれる本尊を立てず、ただ天国という曖昧な漠然としたところへ送り出す、一種の送別会のようなものとしてやっているところでしょう。無宗教葬とは、つまるところこういうことだと考えています。

 

私は坊主に頼まない葬儀というものがあっても仕方がないと考えています。これだけ葬儀費用が云々と宣伝されていれば、嫌だと思う人が出てきても仕方ありませんから。でも本当のところは、この宣伝は誤解であり、きちんと菩提寺と付き合いを続けていれば、納得のいくものと思えるのではないかとも考えています。菩提寺のある方は、まずお付き合いをしてみることです。付き合わないから納得できないのですから。付き合うことで、精神的な拠り所にお寺はなっていくはずですよ。

 

話を戻しますが、坊主に頼まない葬儀をするならば、お経を読めるようになっておかなければいけないと考えます。お経を読み、何か書かれているのか知っておく必要があると思います。先程の富木氏。この方は大聖人の教えの一番の理解者と言ってもいい方です。多くのお弟子さん方よりも大聖人の教えを理解していたのではないかと私は思っています。それほど優れた方です。だからもちろん、お経は読めたはずです。そしてその内容も分かっていたはずです。だからこそ、ご自分でお母様の弔いができたのでしょう。

 

こう見ていくと、信心は生きている内に確立させること。これが大切だと思います。確立した信心があるから、死後、自分の魂がどうなるのか分かり、安心も得られるのですから。そのためにはお経を読み、何が書かれているかを知ることです。これがなければ、坊主なしの葬儀はできないのではないでしょうか?

また坊主に葬儀を頼んだら、きっちりと教え(宗旨)を説いてもらうことです。私の宗旨では、故人の魂はどうなっていくのかを教えてもらうことです。家族の死という悲しい出来事を縁とすることになりますが、宗教のことをじっくり考える機会になりますから。とても大切な機会となりますから。

 

信仰の確立がないところに、本尊の導きはありません。お経にも仏教は縁に依るとはっきり書かれています。信仰しようという気持ちがあって、宗教的な導きは現れるということです。葬儀もこの導きを頼って行われるものだと私は考えています。

お経を読みましょう。信仰のない方は、いろいろな宗派のお経を読みましょう。学びましょう。そして自分にしっくりする信仰を確立しましょう。そうすれば、自分で葬儀もでき、もっとも費用を押えることも出来るでしょう。

 

妙心教会では、土日に自我偈というお経を10回連続で読んで、その後、南無妙法蓮華経のお題目をひたすら唱える朝のお勤めをしています。今は月に何人かの方がご参拝されるだけのものですが、この土日のお勤めを通して、お経やお題目をご紹介させていただきたいと考えています。興味のある方は、お問合わせの上、ご参拝下さい。かな付きのお経本も用意してありますので、どなたでも少し練習すれば、必ず読めると思います。終わったら、加持祈祷を致します。参拝される時は、お気持ちでお布施をいただいております。ご念頭ください。ちょっとだけ当教会のことを紹介しました。

 

筆に任せて書きました。最後までお読み下さり、ほんとうにありがとうございます。

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