昨日は成道会

昨日8日は、お釈迦様が悟りを開かれたとされる日です。

私のお釈迦様像は一般的に言われるお釈迦様像とはちょっと違います。お釈迦様は紛れもなく聖人。聖人も聖人、本当に凄い聖人なのですが、こうなるまでには、私たちと同じように凡夫として色々失敗を重ねてきたのではと思うのです。そして悟りを得た、その瞬間、自分は生粋の凡夫であるということをはっきりと自覚したところにお釈迦様の偉さがあるなと思っているのです。ちょっと書いてみます。

悟りを求める修行の過程で、体を痛め、命さえ縮めてしまいかねない苦行をしていたお釈迦様。でもギリギリのところまで来て、このままでは本当に死んでしまうと苦行から抜け出したそうです。私はここが偉いと思っています。だって命より大切なものはないですから!!

でも一緒に修行してきた仲間は、お釈迦様を脱落者として軽蔑したそうです。死んだら終わりなのに…。

お釈迦様は倒れ込むように苦行から抜け出し、菩提樹と呼ばれる大きな木に寄りかかりじっと動かずにいたのです。息も絶え絶え、このまま死ぬのではないかという恐怖とともに・・・。
そうしていると、ほのかに食べ物の臭いがしてきます。薄っすらと目を開くと、女の子が器を持って近くを歩いています。器からは湯気が…。
お釈迦様、もう勝手に体が動いてしまったのでしょう。ものすごい勢いで立ち上がり、女の子から器を奪い、それをグーッと飲み干してしまいます。味わう余裕はありません。体が、命がただただ欲していたのでしょう。すごい勢いで一口に飲み干します。

奪われた女の子はカンカンです。おそらく蹴ったり殴ったりしていたことでしょう。罵声を浴びせていたことでしょう。でもお釈迦様、気にせず飲み干してしまいます。
そして、「ああ、まずい。…でも生き返った!」と小さく一言。

女の子、自分の食事だろうものを奪われた上、こんなことを言われたのだから憤怒の形相です。でもここは私の想像ですが、しばらくするとこの女の子、お釈迦様をみて笑っていたのではないかと思うのです。お釈迦様にそういう徳のようなものがあってそれを感じたのではないかと。…あくまで想像ですが・・。

お釈迦様は、おそらく自分は修行さえ満足に出来ないと打ちひしがれていたのではないかと思うのです。自分から苦行を抜け出しているのですけど、それでも打ちひしがれていたと思うのです。こんなことで死ぬのなんて嫌だと抜け出したけど、でも打ちひしがれていたのです。自分は修行さえ出来ないと。こういう矛盾、皆様にもありますよね?
でも抜け出したけれど、体が弱りきっていてもう動けないのです。じっと死を待っているような状態です。死にたくないと思いながら…。
ここに女の子が来たのです。だから最後の力を振り絞ったのです。そして奪い取ったのです。飲み干したのです。最後にあの言葉です。この言葉も私の想像です。でもこれが悟りの第一声だったと思うのです。こんな俺でも生きたいんだ!死にたくないんだ!!という身をもって知った悟りの言葉だったのではないかと。

仏教は命を大切にする教えです。私はお釈迦様の悟りを「何やっても中途半端な、不完全な自分でも生きていたいのだ。他の人だってそうだろう」このように体感したことだと考えています。自分は徹底した凡夫。この世に生きる人も皆凡夫。お互い自分に出来ることをしていこう。こう考えたのではないかと。これがお釈迦様のお考えだったのではないかと。
仏教は誰でも命は大切なのだと共通項を見出し、それぞれの命を守るよう、尊重するようにしようと言っているのではないかと思っています。命を守る、尊重する。これこそ「慈悲」というものだと考えます。自分は何も出来ない凡夫だけど、生きていきたい。きっと他の人も同じだよね。だったら外の人のことを大切にしていこう。こういう気持ちが慈悲だと思うのです。
お釈迦様は、自分の体験から、自分の命の大切さを実感し、慈悲にまでたどり着いたのではないでしょうか。

ここに書いたのは、あくまで私の感じているお釈迦様像です。一般的に言われていることと大分違います。でもお釈迦様はもっと私たちに近い人だと思うのです。否、思いたいのです。だからこういう人物を想像しています。そして大変偉い聖人だなと尊敬するのです。少しでも近づけたらなと思うのです。こういう悟りならば、私のようなものでも手に出来るのかもしれないと淡い期待をしながら…。

最後までお読み下さり、本当にありがとうございます。

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