家に火がついているのに、分からないって???

今日は節分でしたね。私は知り合いのお寺さんにお手伝いに行ってきました。荒行堂を4回も出ているお上人なので、一緒に祈祷をするのは大変。とにかく足を引っ張らないようにと、それこそ一生懸命にお経をあげ、ご祈祷をしてきました。

ご祈祷というのは、お祓いということでもあります。何かをお祓いする。これがご祈祷です。では何をお祓いするのでしょう。

法華経の譬喩品(ひゆほん)というお経に、とても有名な三車火宅(さんしゃかたく)の例えというのがあります。

古くて大きな家がありました。この家は一人の大金持ちの所有でした。この人には沢山の子供がいて、この大きな家で過ごしています。ある時、この家から火がでます。でも子どもたちは、火が出ていることが分からず、遊んでいます。父親が危ないぞと言っても、何が火なのかさえ分からず、父親の言葉をぼーっと聞いては、また遊んでいる始末です。

このような状況から、方便という手法をもってこの子どもたちを救い出すという物語が語られるのですが・・・。私にはどうして子どもたちは、明らかな火事を見て、火事と思わなかったのか?疑問に思えて仕方がありませんでした。だって家が燃え盛っているわけですから。どう考えてもわかるだろうと…。

でも子どもたちはわからないのです。そしてこの分からないのがこの物語のミソなんでしょうね。

おそらくですが、この火はごく当たり前にあるものなんです。ちょうど空気のようにいつも私たちのそばにあるものなのです。それがどうもちょっとおかしくなってしまった状態。これを火事として描いたのだと思うのです。

こういうことってありますよね。たとえば、とても親しくしている人といつもどおりに話していたつもりがどうもギクシャクしてしまったとか。いつもと同じことをしているのに、いつもの結果にならない。こんな時、私たちは何が原因かわからないものです。そしてわからないからいつもどおりにするしかありません。ちょうど火事の中にいながら、子どもたちが何も知らずに遊んでいるように。そしてどんどんドツボにはまっていく…。

こんなドツボにはまることがあってはいけないよ。これが譬喩品に説かれる三車火宅のメッセージの一つであると思います。もちろん、この例えはもっと別な意味で説かれているものですが、私はこういう見方もありかなと思っています。

さて最初にお祓いで何を祓うのかと書きました。私は当たり前であることに安住する気持ちを祓うと捉えたいのです。私たちはどうしても保守的になりがちです。生きていく上で保守も大切ですが、そればかりでは、火事に気づかない子供のようになってしまうかもしれません。日々、チューニングが必要なのでしょう。

家族との関係は?友達、職場の人との関係は?とよく目を凝らす必要があるのかもしれません。大きく言えば、国と国との関係なども大いに見直す要素がありそうです。いつも間にやら火がついて、それに気づかず…、ということがないように!!

お祓いは、祈祷は、日常のごく当たり前のことを見直す契機として利用できます。新しいことを始める際、またはどうも最近何かが変だと思った時、こういう時、お題目を唱え、お祓いを受けるときっとなにかの気付きが得られると思うのです。どうぞご利用下さい。

皆様とご縁がありますように。

最後までお読み下さり、本当にありがとうございました

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