難信難解

当教会が読誦する法華経の中にタイトルの言葉があります。「なんしんなんげ」とよみます。信じることも理解することも大変難しいという意味です。

法華経というお経について言っているものですが、私は人間の精神構造としても的を得ていると思うのです。

つまり私たち人間は、他人を、自分以外のものを信じること、その上で理解すること、こういうことが下手だと思うのです。

信じるというのは、いわば博打のようなところがあります。信じようとするものが何なのかわからない状態で、信じるという行為をしようというのですから。いつ騙されるかわからない。信じるって怖いのです。勇気がいるのです。

だから信じるって、私たち人間が一番苦手なものだと思います。出来るのは、小さな子供の内だけ。それもお父さん・お母さんに対してのみ。…大きくなるに連れて、親を信じるというものだんだん薄れてくるでしょうが・・・。

信じるのは難しい。だからこそ、宗教・仏教は信じることを説くのでしょう。難しいのは分かっているけれど、信じるという行為以外にこの世がより良くなる方法はないのだと説いているのだと思います。

信じるのは難しい。でもこれは私という存在を他に信じてもらうのも難しいということです。私が他を信じないのと同じで、他も私を信じないのです。

お互い信じてやるから、信じるに足る何かを示せと言っているのです。こういう状態でみんな生きていますから、信じるのはとても難しいのです。

このような状態では、世の中は疑心暗鬼です。何かあれば、相手の否をあげつらうようになるでしょう。私に信じさせる何かを提示しなかったあなたが悪いのだと。逆も然りです。こうして信じる心と真逆な疑う心が大きくなっていくのです。

仏教は、信じることが全てと説きます。これはこの私が相手に信じてもらえる存在になろうと努力することなのです。相手に信じるに足る何かを示せ、そうしたら信じてやるという態度ではないのです。自分が信じてもらえる行いをしようという意味なのです。

信じるのは難しいです。でもだからこそ価値があるのです。こう思います。まず自分が信じてもらえる人物になるよう努力する。これが信仰なのでしょう。お題目修行もこういう人格になれるようにとするのでしょう。

他人を信じるのは難しい。自分を信じてもらうのも難しい。信じるって難しいのです。でももし出来たらすごく良いことが待っているように思うのです。

世が乱れる時、必ず疑いの心が起こっていると言います。信じる心をお互い大切にしていく必要があるように思えてなりません。

信じるのは難しい。反対に疑うのは簡単です。でもその先に、何があるのでしょう…。信じる心を訓練する必要があるように思えます。

思ったことを少し書いてみました。最後までお読み下さり、本当にありがとうございました。

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