私の理解で諸宗の違いを書いてみます

お経に「一切衆生悉有仏性」という言葉があります。これは人間ならば、今たとえどんな悪い行いをしている人でも、必ず心の中の奥深くには仏様のような清い心が内在しているという意味です。一般にどんな人でも仏になれる性質を持っているという教えとなり、故に誰でも仏様のようになれることへの証拠として使われるお経文です。

誰でも仏になれる。これが大乗仏教のスタンスです。

だから、人々の心の奥底に隠れている仏性を、

①どう発見し、

②発見した仏性をどうしたら発動できるようにできるか

この二点が仏教の教えの内容となります。

例えるならば、だだ広い荒野が目の前に広がっているとします。地平線も見えていて、その先まで荒野が続いているのです。この広い荒野の中から、唯一つの仏性という種を発見し、それを育てて花咲かせようというようなものです。

仏教の創始者であるお釈迦様は、この難事をやり遂げたのです。だから私たち人間にも出来ないことはない。そこで修行者が現れます。この難事をお釈迦様に続いて実現しようと生涯を捧げたのです。

しかし日本の鎌倉新仏教の祖師たちは、この仏教の流れに疑問を呈しました。そんなんで本当に仏教に救いはあるのか?と真剣に考えたのです。

そしてとうとうこの流れから離脱します。日本独特の仏教の始まりです。

まず出たのが法然上人とそれに続く親鸞上人。広い荒野から、唯一つの仏性という種を見つけるなんて出来ないよ。ましてやそれを育てて花咲かせるなんて、俺には絶対不可能だと主張します。そして、まず死後に素晴らしい世界に生まれ変わることを救いにしようと説いたのです。生きている内に修行して仏になるのは、以上のように難しいから、まず素晴らしい世界に生まれ変わろう。素晴らしい世界ならば、仏性の種を探すのは難しくないのだと。そしてそこで修行して仏となり、この世界に戻ってきて人々を導こうというわけです。

道元禅師という方もいます。この方は、仏性に種に拘らず、まずこの風景の素晴らしさをご覧と言ったのだと思います。仏性を探し回るのではなく、このだだ広い荒野という風景こそが大切ではないかと主張したのだと。心の中の良いものを探し回るのではなく、心そのものにもっと注目しようよ。そしてその心のありのままを受け入れることが救いなのだよと。

鎌倉新仏教ではありませんが、真言の空海上人。この方も独特だと考えます。この方の主張は、自然が発する言葉に出さない声を聞け、行動に現れない行動を見よ。そしてそれに同化しよう。自然との同化が救いなのだと、こう主張したのだと思っています。

さて、当教会の宗祖・日蓮大聖人です。この方は、広大な荒野から仏性を見つけ出すのは難しいと認めます。だからもう一度、目の前の荒野に仏性という種を植え直せばいいではないかと主張します。種はここにある。それこそ南無妙法蓮華経のお題目だと。見つけ出すのではなく、植えなおして、育てるのが導きだと。

仏性という種をどうするか。ここから諸宗は考え方を異にしているのだと私は理解しています。

今日はお彼岸の中日。皆様への法施になればと思い、少し書いてみました。最後までお読み下さり、本当にありがとうございます。

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