存在は何にでもなるということ

昨日、三法印の一つ、諸行無常のことを書いてみました。

今日は「諸法無我(しょほうむが)」について。これは諸法(=この世の全存在)は確立した自我を持たないということです。

考えてみればそうです。一人の人は、今の環境において自分を演じています。例えば、職場では課長、家ではお父さんなど。一人の人が課長になったり、お父さんになったりしています。あなたは一体、課長なの?お父さんなの?と言われれば困ってしまうだけです。どちらも自分なんだけどな・・・と。

私たち存在は、自分の置かれている環境に適応する形で、自分を演出しているのです。この演出している姿を自分だと思い込んでしまいがちですが、そうではないのだよ。こう教えるのが諸法無我という教えなのではないかと思います。

この教えは、私たち存在は確立した絶対変化しない自我を持たないのだから、何にでもなれるのだよと言っているのだとおもいます。自分次第で、どんな役をも演じられるのだよと教えてくれているのです。

悪にも善にも自分の心次第でなれるのです。なんとも宙ぶらりんの存在です。どっちつかずの存在です。自分とは?と考えだしたらおそらく答えなどでない存在です。こう教えてくれるのが諸法無我というものだと思っています。

宙ぶらりんでよく分からないけれど、自分次第で何でもなっていける(演じていける)というのは、とても心強く思うのです。

今、何かに迷いどうしていいかわからないと悩んでいるならば、この諸法無我の教えを信じて頂き、思い切って新しいことをしてみるといいかもしれませんね。こうして今までと違った自分を演出してみる訳です。

最後までお読み下さり、本当にありがとうございます。

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