宗教・信仰の肝は「究極の抽象化」だと思ってます

宗教って何?と聞かれたとき、「究極の抽象化」だと答えるようにしています。

具体的なものを抽象化してぼやけさせる。ぼやけさせるというと、嫌なイメージになるかもしれませんが、具体的なものをこういうものだ!と固定化しないという意味です。

私は横山浄竜ですが、これを横山とすれば、個人としての私は抽象化されます。横山を名乗る人はたくさんいるのですから。

これを日本人といえば、もう個としての私はいない様にさえ思えます(間違いなく中にはいますが)。

人類といったら…。

生物といったら…。

地球といったら…。

宇宙といったら…。

○○といったら…

○○○○といったら…。

・・・・・・

このように考えていき、究極の抽象化を求めていくと、そこになにがあるのでしょう。

ある宗教は、全知全能の神となるでしょう。

別の宗教では、法となるでしょう。

いずれにしても私たちは、このような究極の抽象化の中の一部としてここにいるということになると考えます。

そして究極の抽象化を果たした「これ」は私たちを分け隔てなく包み込んでいるもの。生まれるのも死ぬのも生きるのも、これと離れて行われることはないのです。

このような大きな包み込むものを説くのが宗教。そしてその包み込んでくれるものを信じて安心を得ようという行為が信仰。

このように当教会では考えています。

宗教・信仰は、私たちの心・精神に安心を与えてくれるものです。大きな、例えるならば小さな赤子がお母さんに抱っこされているような安心感、これを得ようとする行為です。

宗教は心が弱いものが頼るのだという方がいます。その通りなのでしょう。でも人はそんなに心は強くないと思います。だからこそ宗教はいつの時代・どの国にも存在したのでしょう。

自分の心はそんなに強くない。だから心に安心感を得たい。このようなニーズから宗教・信仰は存在しているのでしょう。

思ったことを書いてみました。最後までお読みくださり、本当にありがとうございました。