子は宝という言葉

新コロナウィルスが私たちの日常を蹂躙しています。皆様、体調など崩されていませんか?

当教会は、有縁の方のご自宅にお伺いしてお経をあげさせていただくことが多いのですが…、先月・今月はお互い自粛です。お手伝いのお寺も自粛です。お寺の運営を維持していくには…、正直辛い期間です。きっとご商売をされている方はもっとお辛いことでしょう。なんとか早期の終息をとお祈りする毎日です。

まあ、話を変えます。

コロナで著名な方がまたお亡くなりになりました。ご冥福を心からお祈りする次第です。コロナの危険性を再び思い知らされたように感じます。

それと同時に、私たちの命はとても儚いとも思うのです。いとも簡単に亡くなってしまうのだなと。不謹慎でしょうか?言葉にすると不謹慎に感じられるところもあるかもしれませんが、命が儚いと常に念頭しておくことは、とてもとても大切なことだと考えます。

なぜかというと、この世の真実は生老病死だとお釈迦様はおっしゃったのです。生まれたら変化し続けいずれ死ぬ。これが生命の共通の真相だと。100年の命が保障されているわけではない。その生命の置かれた環境などでいろいろな変化が起こる。死という最後の変化も同じだと。

そしてこの変化、特に死という真相を私たち人間が克服することは不可能でしょう。化学・医学がどんなに発展しても死を克服して、絶対に死なない生命を得ることはあり得ないのではないでしょうか?

命の儚さという問題は、私たち人間の力ではどうにもならない問題・現実なのです。

このようにみてくると、生命の真相である生老病死を受け入れるという形で、命の儚さという問題を克服・解決していく必要があるのでしょう。

ではどのように考えたらいいでしょうか?

当教会は宗教法人ですので、宗教という枠内で書いておきます。法華経・お題目の教えでは、久遠本佛という永遠不変の唯一の命を立てます。そしてこの命の魂魄である南無妙法蓮華経を信じて唱える人は、この唯一の命と一体化できるとします。

親から子、子から孫へとお題目を唱え続けるならば、子々孫々すべて永遠不変の命の中で一緒です。お題目信仰を子々孫々にわたって伝えていくということで命の儚さという問題を克服していくというわけです。

以上は宗教的・信仰的に書きましたが、現実でもほぼ同じではないかと思うのです。私個人は年齢から言って22世紀を生きることは不可能です。でも子供なら、そして孫ならどうでしょう。おそらく生きられます。この子供や孫らが私という存在を記憶し、また子孫に少しでも話してくれるならば!この私は確かにこの世に生を受け、生きたと証明し続けることが出来ます。これは子孫と共に私が生き続けていくと考えてもいいのではないでしょうか。

子供、孫などの子孫は、私という有限の存在を無限の存在へと昇華してくれる大切な存在です。こう考えたいのです。個とすると儚い存在ですが、子供、孫と続いていくことでその儚さは昇華するのだと。

こんな宝物はないのではないかと。昔の人が子は宝といったのは至言だなと。子宝、本当にその通りだなと。

外出自粛は大変ですが、子供との時間が増えた方も多いでしょう。近くにいる宝物とじっくり向き合う時間だと考えるのも良いかもしれませんね。普通に戻ればなかなかできないでしょうから。

最後までお読みくださり、本当にありがとうございます。

皆様がコロナに負けないよう、そして長期戦を覚悟しなければならないこの状況により気持ちがギスギスならないようお祈り申し上げます。