仏教を信仰する目的

私たちが何かを始めるには、目的が必要だと思うのです。

例えば、医者に行くのは、自分の体のどこかに不調があるからであり、スポーツジムに通うのは、体をシェイプしたいからでしょう。

このように私たちは、何かをするとき(自分なりの)目的があって始めるのではないでしょうか?この目的に合致しないものを、いくら人から良いと勧められても納得できるものではありません。何かを始めるには、目的をしっかり持つ必要があるのでしょう。

仏教を信仰するのも同じでしょう。先祖代々の宗旨だからと、信仰に熱心になる人はあまりいません。ご先祖様の法事や家族の葬儀はしたとしても、これは信仰とは違う気がします。

このような方は多くいらっしゃいますね。でもこういう方々は菩提寺があっても自分は無信仰だと思っていたりします。なぜなら信仰するための目的、なぜ信仰するのかという目的が明確にないからでしょう。ご先祖様を敬うという気持ち(目的)でお寺と付き合っているだけでしょう。

※もちろん、そうでない人もいます。ここで書いていることを批判ととらえず、確かにそういう風にも考えられるなと思って頂けたらと願っています。

人生は苦 これが仏教の認識

私たちの人生そのものが苦。これが仏教のこの世についての理解です。ここで私は「苦」と書き、「苦しみ」とは書いていません。ここは重要です。

なぜなら、苦とは、草花がいつまでもきれいな状態でいられないように、時の絶え間ない変化を表すもので、私たちが心で感じる「苦しみ」とは違うのです。

苦と書くときは、純粋に時は変化してやまない、その状態を表したもの。

苦しみと書くときは、この変化を受け入れられず、心に嫌な感情が起こったことを表したものとお考え下さい。

私たちの人生が絶えず変化している。つまり苦であるのは納得いただけるのではないでしょうか。

自分は40を過ぎ、50が見えてきましたが、ついこの間まで10代、20代だったような感じをふと持ってしまいます。若かりし、自由気ままだったころを懐かしむのです。そしていつの間にかもうこんな年になったのかと愕然としたりして…(苦笑)

恥ずかしながら、苦が苦しみとなってしまっています…。

皆様はどうでしょうか?

仏教信仰は、苦を苦しみとせず、受け入れることを目指す

人は誰でも自分の一番いい時のままでいたいと渇望します。・・・しかしそれは不可能です。人生は絶えず変化していますから。まさに仏教が教える苦の状態です。別の言葉でいえば、諸行無常です。

苦(諸行無常)の人生なのに、自分の一番いい時のままにしておきたいと考えれば、たんなる世の中の真理を表していた苦が苦しみとなり、私たちに襲い掛かります。どうすることもできない不可能ごとを何とかしようとするのですから、苦しく辛くなるのは当然です。

・・・でもこれを私たち人間はみなやっているというのです。

苦というこの世の真理を受け入れ従って生きられるようになれば、苦しみはやむ。これが仏教が説いていることです。

ではどうしたら受け入れ、従えるようになれるのか?これが仏教教義です。この教義を学び実践することで私たちは真理である苦を苦しみにせず生きていけるようになるのだとするのです。

苦という真理の中を苦しみと感じずに安穏に生きていけるようになるのが信仰の目的

私たちは、あの時は良かった。あの時ああしていたら…と思うことがあります。仕方がないことに思えますが、これが苦を苦しみにする原因でしょう。

時は変化してやまないのだ。その中で生きる自分も同じ。だから今この瞬間を一生懸命に。となれればいいのです。

このようなマインドになるのはとても難しいものです。だからこそ仏教の教えがあり、信仰があるのでしょう。教えを学び、信仰生活を続けることで苦を苦のまま受け入れられるようになり、人生を安穏にすることができるのです。

これが仏教信仰をする目的だと考えます。

より良く、安穏に人生を生き抜くため、仏教信仰を活用していただけたらと願っています。

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