信仰心無き時代の人々の信仰として: お題目信仰

妙心教会は、日蓮大聖人を祖と仰ぐ仏教教会です。大聖人のご信仰は南無妙法蓮華経のお題目信仰です。だから当然、当教会もこの信仰を受け継いでいます。

大聖人は、次のように布教したのだと理解しています。皆様はこのように言われてどう思うでしょうか?少し考えながら、読んでいただけたらと思います。

「他の一切の教え(信仰)をやめて、南無妙法蓮華経のお題目を唱えなさい。こうする以外、私たちが成仏する道はありません。すぐに他の信仰をやめてお題目信仰を始めないならば地獄に落ちますよ」

…多くの人が何を言っているのだ!と嫌な気持ちになったのではないでしょうか?または、「はー、そうなの」と興味を持たなかったのではないでしょうか?

おそらく、この言葉を聞いて、そうか!それならばお題目信仰を始めないといけないなと考えた人は、(…仮に居たとしても)極わずかでしょう。

大聖人は、このような反応は当然だと考えて布教しました。このような反応をする人々を対象にして、布教をしていたのです。

だから皆様が嫌な気持ちなどになったのならば、大聖人の布教対象として、ド・ストライクということになります。

なぜでしょう?まず一つのたとえ話を紹介します。

法華経という教えの中の「良医治子」というたとえ話です。

どうな病気でも治してくれるという腕のいい医者がいました。この医者は病人がいればどんな遠くにでも治療しに行く人格者でもありました。

医者には、たくさんの子供がいます。この子供を残して、病気に苦しむ人々のため治療に出かけていました。

医者が治療で不在の最中、子供たちは診察室に忍び込み、置いてあった毒薬を飲んでしまいます。そして皆、くるしみ始めます。

苦しいけれど、どうしたらいいか分かりません。早く、お父さんに帰ってきてほしい、そしてこの苦しみを何とかしてほしいと考え嘆くばかりです。

そんな中、父である医者が帰宅します。

すると、大切な子供たちがのたうち回り、苦しんでいます。まだ意識のある子供たちに聞いてみると、遊び半分に診察室に入り、置いてあった毒薬を飲んだというではありませんか。

それは苦しかろうと、医者は薬を調合します。そして子供たちに飲むようにといったのです。

子供たちの内、まだ意識が混濁していない子供たちは、腕のいい医者であるお父さんが作った薬だから、この薬を飲めば必ず苦しみから解放されると信じて、すぐに薬を飲み干します。そして苦しみから解放されました。

しかし子供たちの内、意識の混濁が激しい子供たちは、お父さんが作った薬だとは知りながら、飲もうとしません。

どういう理由で、このようなことになったのか?私にはよくわかりませんが、とにかく薬を飲まないのです。薬を飲まないから苦しみから解放されることもありません。

医者は一計を案じます。

苦しんでいる子供たちに「この薬を飲めば必ず良くなるからな。薬はお前たちの目の前に置いておくよ。私は困っている人たちのもとに行ってくるよ。今度の人々のいる場所はかなり遠い場所なんだ。私も年を取っているし、もしかしたらもうお前たちに合えないかもしれない。だからどうかこの薬を飲んでおくれ」と言い残して、旅立ってしまったのです。

そして旅先から、自分が死んだと子供たちに偽の知らせを伝えさせたのです。

苦しんでいる子供たちは、この知らせを聞いて、深い悲しみと絶望感を味わいます。もうお父さんはいない。この苦しみを救ってはくれないと。

苦しんで、苦しんで、苦しんで…、

ハッとお父さんが作ってくれた薬があることに思い至ります。

そして一気に飲み干し、長らく苦しんだ状態から抜け出したのです。

医者は、子供たちが苦しみから解放されたとの伝えを聞いて、子供たちの元へと帰宅し、お互い喜び合ったとのことです。

大聖人は、この話に出てくる意識が混濁して薬を飲まず苦しんでいる子供たちこそ、現実の世界で生きる我々の姿だと法華経の教えから理解したのでしょう。

そしてお釈迦様が作って、子供たち(我々)の前に置いてある薬が南無妙法蓮華経のお題目なのです。

もちろん、医者はお釈迦様ですね。

私たちが生きる今という時代には、もうお釈迦様はいらっしゃいません。

でも苦しみから解放する薬、お題目はあります。

このような状態ですが、私たちはこの薬を飲もうとしません。

たとえ話の通りの状態です。

この状態は、私たちを救うような大人物が今の世にはいないということでしょう。しかしその人物の教えは残っている。

だから私たちは自分の力で生きて、その中様々な経験を通して、苦しみ、悲しみ、時には歓び、齷齪(あくせく)するしかありません。おそらくこの齷齪の大部分は、自分の思い通りにいかず苦しみと感じることが多いのではないでしょうか。

人生そのものが苦である。仏教が説いていること、そのままです。

大聖人は、お題目という薬を無理に飲ませようとしてたのです。もう苦しみから解放されるためには、これしか残っていないのだからと。

嫌だろうが、怒ろうが、苦しみから解放されるための選択肢は一つだけ。こういう状態ならば、もう無理にでも勧める以外ないというわけです。

大聖人の布教を気に入らないと思ったのならば、意識混濁の子供と同じです。目の前に薬があるにもかかわらず、嫌々して飲まずに、人生の苦しみを味わい続けているということになります。前に書いた、大聖人の布教対象としてド・ストライクの人物というわけです。

お題目を唱えるのは、薬を飲む行為です。苦しみから解放される行いです。大聖人はこうおっしゃっているのです。

自分の思うにままならない人生をひしひしと感じ、ここからなんとか抜け出したいと思ったのならば、大聖人のすゝめに従ってみてもいいのではないでしょうか。

ただ注意すべきことが一つあります。信仰は、漢方薬を飲んだり、ダイエットしたりするのと同じで、始めたらずっと継続しなければ、効果が実感できないものです。すぐに結果は出ません。こういうものです。ここはご了解いただかないといけません。

私は、お題目信仰を続けることで、いつの日かお釈迦様の慈悲の心に包まれ、自分のこと、世間のことなどなど、すべてを許せる(?)、こんな境地になれるのではないかと想像をたくましくするのです。

・・・全くと言ってできていない自分ではありますが…。

まずは、当教会とご縁のある方々、お題目を毎日声に出して唱えましょうね。

今は春のお彼岸期間です。ちょっとした法施になればと思い、書きました。じっくり読んでみてください。

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