法華経の中にタイトルの経文があります。
「しょもんぶっぽう ぐうべんしんじゅ」と読みます。訓読すると「初めて仏法を聞いて、たまたま(遇)すなわち(便)信受す」です。
初めて仏様の教えを聞いて、何の違和感もなく良いものだと受け入れることが出来た。こんな意味だと考えます。
この経文は、お釈迦様のお弟子さんが懺悔する部分で現れます。仏様に出会い、その教えに触れ、最高のもの、これ以上のものはないと信じきってしまったと。だから自分が聞いた以上の教えはもうないと勝手に決めつけ、それ以上を聞こうとしなかったと。
このお弟子さんのようなことも私はよくやっているように思います。自分がやっていること・思っていることに対して、長年これでやってきたのだ。こういうものだ。これでいいんだと。新しく他のことをする必要はないと。皆様はどうでしょう?
この世には様々な思い・思想・信条をもった人々が一緒に生きています。これらを形作ったのは、その人の身近な生活環境が強く影響していることでしょう。
日本では、個人としては無信仰の人でも、我が家は代々何々宗といいます。これなんかも個人に身近な環境が作用しているからだと言えます。信仰を自ら選ぶことなく、先祖代々だからというのですから。
当然のことだと思いますが、人は保守的です。自分の生活は安定している方がいいのですから。多少の問題があっても、やり慣れたもののほうが愛着があるのは仕方がありません。今までのままの方が断然楽ですから。
だからこのお弟子さんはえらいなと思ったのです。自分の執着をきちんと懺悔したのですから。なかなかできるものではないなと。