当教会の本堂には、お立ちになったお姿のお釈迦様がお祀りされています。このお釈迦様は、法華経で初めて示された本当の姿・久遠実成(この世が始まった時、悟りを開かれた)本師(唯一無二の導師)釈迦牟尼仏です。
このお釈迦様を本佛(唯一無二の仏様)といい、ご本尊(信仰をささげる対象)としています。
悟るためには、修業が必要です。
しかし本佛様が悟ったのは、この世の始まりです。
どういうことでしょうか?
阿弥陀様がいらっしゃるという極楽浄土は、阿弥陀様の悟る前の修行者としてのお姿・法蔵菩薩さまが48の大願を起こし、それをことごとく成就することで出来上がった素晴らしい世界だといいます。念仏のご信者さんたちは、このことを救いとして、自分も極楽に生まれ変わりたいと信仰しているわけです。
しかしこの阿弥陀様の物語は、この世の始まりで悟ったとおっしゃる本佛様の物語でもあります。本佛様は、この世が始まる前に、人々を救い導きたいと大変なご修行をしていて、ついに悟りを開き、この世をお創りになったのです。だからこの世は本当は浄土なのです。
日蓮大聖人は、この世を霊山浄土(りょうぜんじょうど)とおっしゃっています。本佛様がお創りになり、今も私たちと一緒にいて下さる素晴らしい世界、これがこの世の本来の姿・霊山浄土なのだと。
だからこのような世界に生きる私たちは、良い果報を得て生まれてきたのだと。極楽を目指す必要などないと。
では、なぜこの世で生きることはかくも大変で辛いのか?
大聖人は、私たちが本佛様に縁を得て導かれている果報者であるという自覚を見失ってしまっている(失念してしまっている)からだとおっしゃいます。
この自覚を取り戻すとき、私たちは霊山浄土に生きる果報者として、本佛様の導きに適う生き方をするようになり、この世も本来の姿を取り戻すのだと。
…こういう大聖人のお考えに従うならば、極楽浄土に生きる人々も、この世で生きる私たちのように阿弥陀様に縁を得て導かれている果報者という自覚を失っていて、極楽を辛く大変な世界にしてしまっているのかもしれませんね…。
この世は本佛・お釈迦様の世界・霊山浄土である。ここに生まれ生きる私たちはこの本佛に縁ある果報者である。この自覚を得て、本佛様の導きに適う生き方をしていこう。そうすれば、この世は本来の姿・霊山浄土に立ち返るから。これが日蓮大聖人がおっしゃったことなのではと考えています。
…それでも…、この世に生きるのは大変だと思ってしまう自分がいますが(苦笑)…。なかなかままならないものです…。