日蓮大聖人の著書に「立正安国論」があります。
この著書でもっとも有名な文は
汝、早く信仰の寸心を改めて・・・
と始まる部分でしょう。気になる方は、一度、本文を読んでみてください。
この著書は、直接的には、念仏を唱えて極楽浄土へ往生しようという信仰を持つ人々に対して、大聖人の考えを披歴したものです。
念仏の信仰では、私たちが生きているこの世を不完全な世界とし、極楽を完全な世界とします。私たちの世界は悪い世界、極楽は良い世界というわけです。
悪い世界に生きる私たちは、煩悩というものに支配され、なかなか完全な良き行いができない。だから仏様のようになりたいと思い立って修行をしても、煩悩の力で思うように悟りなど得られない。まずは阿弥陀様に頼って、この仏さまが創始された素晴らしい世界・極楽に生まれ変わって(往生して)、そこで修行をして悟りを得よう!悟りを得たら、この世に生まれ変わって、人々を導こう。そうすればこの世もよくなるからと。
このように道を示したのが、念仏という教えだと理解しています。
現実を見ると、実にもっともと思えなくもない教えなのです…。やっぱり本佛・お釈迦様が「絶対の悟り・法華経」を理解させたいと説いた準備の教えだけあります。この世で生きる私たちの生きづらさをまず救おうと説かれている教えです。
さて、大聖人は、法華経の教えにより、この世こそ本当は久遠実成本師釈迦牟尼仏が常住する永遠の浄土だと信じました。理解しました。
そして浄土のはずのこの世になぜこれほど悲劇が起こるのか?というと、私たちが浄土に生きているという自覚を失っているからだといいます。自覚がないのが煩悩なのだと。
大聖人はこんな言葉も残しています。要約すると…。
(私たちが生きるこの世を)悪く思おうが、良く思おうが人それぞれだが、それはその人の考えであって、この世はただ一つのこの世だ
と。
私なりに包丁という刃物を例えにして、このことを考えてみたいと思います。
包丁は正しく使えば便利な調理道具であり、悪しく使えば殺人の凶器です。包丁自体は包丁としてあるだけです。そうだとすると、私たちが包丁にどう意味づけをして使っていくかが問題となるわけです。
包丁には、確かに凶器という側面があります。でもこの側面は間違っているのだから、そういう使い方をしてはいけないと。調理器具としてのみ使うのだという自覚を持って正しく使おうと。
こうおっしゃっているのではないかと考えています。
本題に戻りますが、この世も同じだと。つまりこの世自体は変わらない。だからこの世をどうとらえて生きていくかが問題だと。
悪いものだと思えば、死後の素晴らしき世界を求めてやまない気持ちも出てくるというもの。生きづらさを解消するために死後の素晴らしい世界を求める気持ちは十分理解できるが、その世界を思い描いて心が楽になったのなら、この世に現在進行形で生きているということに目を向けなければいけないと。
まず本当にこの世は悪いものなの?と問いかけてみましょう。
この世には食べるものがあります。空気も水もあります。つまり生きてはいけます。辛いことは本当にたくさん、たくさんありますが…。
それもどんなことをしている人でも、です。分け隔てはありません。例えば悪さをしている人の立っている地面が裂けて穴に落ちるとか、悪さをしている人のところだけ空気がなくなって息ができないようになるなどといったことが起こることはないです。つまりどんな人でもこの世から直接罰せられることはありません。良いとか悪いとかいうのは、いつも私たち人間です。
母なる大地とはよく言ったものです。この世は私たちがどんなに至らないとしても、等しく恵みと慈悲を与えてくれているとも考えられるのです。
このように考えるならば、この世は浄土であるという大聖人の教えも一理あります。後は私たちすべてが浄土に生まれてきたのだという自覚をもって、この自覚に適った生き方をするだけだとなります。そうすれば、この世は本来の浄土としての姿を取り戻すのだと。これが大聖人の立正安国という教えです。悪い世界だから良い世界にと信仰するのではなく、本来良い世界なのだと信仰を変える。そしてその本来の姿を取り戻すように私たち一人一人が良い世界に生きているという自覚をもとうという教えです。この自覚さえあれば、生き方は人それぞれ。あれこれ指図されることなく自由です。良いなと思います。
だからまずは、この世こそが本来は浄土なのだ。この浄土に自分は生まれてきて生きている果報者だと心底思えるようにだけはなんとかなりたいものです。このような努力だけはしていきたいと思うのです…。
言うは易く行うは難し…。ほんとに、本当に…難しいですが…(苦笑)。