「信じません。

神がもしいるならば…、ずいぶんと意地悪だと思いますから」

最近読んでいる携帯小説の中に出てくる人物の言葉です。

昔、ご商売をしているお宅へご祈祷に伺った時、良く思わないご家族から「祈って商売繁盛するなら、とっくに繁盛しているよ。こんなことしてだまそうとするなよ」といわれたこともあります。

…分からないでもないですね。

真面目に生きていれば、今の世界の現状を見て、神様というものに不信感を持ってしまうのは、この登場人物だけではないでしょう。

祈祷が商売繁盛に直結することも、まずありません。このご家族のおっしゃる通りです。

ではなんで神様とか祈祷があるのでしょう???

私個人が思うに、未来という分からないものに挑んでいくために必要なんではないでしょうか。

分からないものは怖いものです。生きていくというのは、その未来を刻々と体験することです。まさに恐怖の連続とも言えます。

この恐怖に心が折れないようにするには?

希望をもつしかありません。

誰かが助けてくれる、見守ってくれる、導いてくれる、それでいいのだと肯定してくれる、このような存在が必要だと思うのです。

またはきっと大丈夫と思えるように、祈りという儀式をするのも有効だと思うのです。

どれも分からない未来に対して、良い方向に進むのだと思いたいがためにやること、信じること。

だから神様とか祈祷は、信じた人にとって大切なのです。信じない人にはいないのであり、効果が期待できないものなのです。

そして信じるのは自分という個です。他人様に押し付けるものでありません。紹介はしても、信じるかどうかはその人が判断するものです。

こう思います。

神様を信じたならば、この方が自分を見守り導いてくれているのだ。しっかり真面目に生きていけば、必ず良い方向に進むのだ。こう思えばいいのです。そして分からない未来を安心をもって切り開いていくのです。

祈祷も一緒。神様にお祈りの儀式をすることで、神様の存在を再認識して、導かれていることを実感するのです。

私たち人間は、小さな子供のころは親が何でもやってくれます。でも大きくなると、子供自身が何でもやるようになるはずです。でも何でもやるからと言って、親が子供のことを見ていないというわけではないはず。いつでも助けられるように見守っているのです。この見守りを感じられると、子供は大きな安心を得ます。

神様も祈祷も、信仰もこの見守られているという安心感を得たいがためにあるのではないでしょうか?

信仰を持つことで、自分は見守られている。だから何があっても絶対大丈夫だという気持ちを得ていきたいものです。

当教会では、南無妙法蓮華経とご信仰いただくことで、このような安心感を得ていただきたいと有縁の方々に伝えています。

…この安心感を抱き続けるのは、とても難しいですが…。それでも!!

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