宗祖・日蓮大聖人は、12歳でお寺に入り、仏道修行を始めました。
そして32歳まで、布教活動をせず、修業時代を過ごします。
実に20年。
赤ちゃんが成人する期間です。
それも!
大聖人の時代は、鎌倉時代。
西暦では、1200年代です。
この時代より300年ほど後の戦国時代。
織田信長は「人生50年」と舞っていますから、
平均寿命は、50年より短かったのかもしれません。
こういうの時代の20年を修行だけに費やしたのです。
思えば、
念仏の法然上人。
この方も布教を始めたのは40過ぎといいます。
曹洞宗の道元禅師は、中国渡って修行しています。
当時の渡航は大変な難事、命がけだったはずです。
そもそもお釈迦様は悟りを得られるまで、布教活動に入っていません。
紀元前の方ですから、平均寿命はさらに短かったと想像できます。
なぜこれほど修行に時間をかけたのか?と思うのです。
平均寿命などといった(馬鹿げた)考え方はなかったでしょうが、
それでも人生をかけた修行だったのは間違いないと思うのです。
宗教というのは、難しいもの。
扱いに相当な気遣いが必要なもの。
こう思います。
間違えば、大変なことになります。
ニュースなどを見ていて、こう感じることがあります。
大聖人をはじめ、
昔の優れた宗教家は、こういうことを理解していたのではないでしょうか。
自分の信仰が、自身の血肉とならなければ、教えを広められないと!否、広めてはいけない!!と。
だからこそ念入りに修業をしたのではないか。
こう思うのです。
宗教は難しいもの。
だからこそ、慎重に、省みつつ、正しく伝える必要がある。
そのために長い、下手すれば人生が終わってしまうかもしれないような長い、長い時間…。
修行をしたのではないか。
こう思うのです。
そして…、
自分はどうか?
こう思うのです。
・・・とても、とても…、
50近くになっても…、
成熟していないなぁ…。
こうひしひしと感じる自分がいます…。
願わくば…、
いつの日か、
来世、また次の来世、
その次の
次の
次の…、
来世かもしれませんが、
宗教信仰を間違えることなく扱えるようになりたいものです。
信仰が自分の血肉となるようになりたいものです。