行わないという方が
増えているようです。
もちろん、
今まで通り、
行っている方もたくさんいますし、
こういう方々は
これからも続けていくとおっしゃっています。
あくまで、増えているようだという感覚です。
行わないとおっしゃる方に話を聞くと、
ご先祖様を供養するのは大切だと思うが、
宗教儀式をする必要はあるの?
と疑問形でこたえ?が返ってくることがあります。
供養=宗教儀式(年回忌)
と結びつかないようです。
確かに
無宗教・無信仰だと思っているならば、
こういう結びつきは起こらないのでしょう。
つまり
宗教を介した儀式で供養を行う必要はない
と結論できてしまうわけです。
これは…、
きっと…、
私のようなものが
死後の救いというのでしょうか?
そういうものをうまく伝えてこれなかったからなのでしょう。
こう私は思っています。
そして…、
まだまだ伝えるのができていないとも自覚するものです。
それでも!少し書いておきます。
当教会では、
本佛・お釈迦様のお悟りを体現するため、
信仰者の魂は
生まれ変わり、死にかわり
この世にやってくるとします。
今、私が生きている人生は、
この繰り返しの一つだと考えます。
この繰り返しの中での行いが
次の繰り返しに影響し、
その次もまた然りだと。
因果応報という教えです。
だから
信仰者は
本佛・お釈迦様のお悟りを体現するためにいると
信じ、
少しでも近づくようにと
今の生を生きるのです。
すると、
次の生では
少しだけ近づいた世界で
生きることができるのです。
誰もが
本佛・お釈迦様のお悟りをこの世に体現しようと生きるようになると、
後々の世で
本当にこの世界でお悟りが体現され、
本来の素晴らしい世界へと
この世は立ち戻ります。
ここがゴールです。
このゴールを目指し、
信仰者は
死後、生前に自分の行った因果に基づいて、
この世のどこかに然るべき姿で生まれ変わるのです。
ただこの因果、
不完全な行いをする私たち人間には
ハードルが高いのも事実です。
善も悪も私たちは行いながら生きているのですから。
そこで、
供養があります。
供養は正式には追善供養といいます。
故人にかわり、
遺族が、または故人に恩を感じている人が、
なにかしら善行をするならば、
それが故人の善行としてカウントされるとしたのです。
実質的に善行をすることができるのは生きている間だけですので、
故人に縁ある人々の善行を故人のものとする考え方が生まれたのでしょう。
こう考えることで、
不完全な生き方をせざる得ない私たちでも
縁のある子孫や知人の善行により、
追善され、
より良い(本佛・お釈迦様のお悟りに少し近づいた)世界に生まれ変わり、
ちょっとだけ良い環境で新しい生を送れるようになるという
死後の救いを示したわけです。
当教会では、このような考えに基づき、
追善供養を有縁の皆様と一緒に行っています。
さて…、
私は親を一昨年亡くしました。
振り返ると、
ずいぶん苦労したのではないかと
思うようになりました。
しかし、
もう何もしてあげることはできません…。
だからこそ、
以上に書いた考え方は
一種の気持ちの拠り所となっています。
ただご先祖様ありがとうと思うのも供養でしょうが、
宗教という教えを介在させた
このような供養に対する考え方もあると
知っていただけたら幸いです。
そして儀式としての供養も必要だと思っていただける人が増えていけばと願っています。
最後までお読みくださり、ありがとうございました。