お彼岸中なので

当教会が信じる「私たちという存在」について少し書いてみたいと思います。

日蓮大聖人もっとも主要とされる著作に「勧心本尊抄(かんじんほんぞんしょう)」があります。

この中に自然譲与段(じねんじょうよだん)と呼ばれる文章が出てきます。

それは

釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経五字に具足す。我等、此五字を受持すれば自然に彼因果功徳を譲り与えたもうべし。

というところです。

あくまで信心の世界ですが、妙法蓮華経というお経にはお釈迦様を大本にしたすべての仏様の大変な修行、それによって悟りを開き人々を導くようになったことのすべてが含まれているとします。

つまり、

お釈迦様を大本にしたすべての宗教的権威(仏など) = 妙法蓮華経

というのです。

そしてこの妙法蓮華経がお釈迦様のすべてなのだと受持すること、つまり強く信じる事(これは現実的にはお題目修行をすることといえます)ができたならば(※これがなによりもむずかしいのです)、信じるこの私はお釈迦様のすべての功徳・能力を受け継いだことになるのです。

簡単に言うならば、お題目信仰を通して、お釈迦様のすべてを私が譲り受けるということ。お釈迦様と等しいものになれるという事。

これを当教会では、お釈迦様と私(信仰者)が一体化するととらえます。

ここで一体化するお釈迦様とは、インドで生涯を送った人間・お釈迦様ではなく、法華経如来壽量品で説かれる永遠不滅の大導師、久遠実成本師釈迦牟尼仏(以下、ご本佛)です。このご本佛とこの私が一体化(同化)してしまうのです。

さて、このご本佛は、永遠の寿命をもち、常にこの世に存在できるのですが、人々を導くために滅度、つまり死ぬことを示すとあります。本当は死ぬことはないのだが、人々の前から、手の届く所から隠れてしまう、いなくなってしまうのだと。

なぜこんなことをするのかというと、ご本佛が永遠にこの世に存在していると、人々がいつまでも(ご本佛に)依存してしまうから、ずっとずっと甘え過ぎてしまうから、そしてこのようになったならばその人の自立(真の力を発揮すること)を妨げてしまうからだと説きます。

皆様はどうでしょうか?たとえば、一般的な(ごく普通の)親という存在が存命で、自分が子という立場でいられる時。どうしても親に対して甘え過ぎてしまいませんか?過度に頼ってしまいませんか?小さな、未成年のころならばいいのでしょうが…、いい大人になっても、親が年老いて昔のような姿でなくなっても、子としての立場で親に接してしまうことがあるのではないでしょうか?

依存できる対象・甘えられる対象がいつまでも手の届くところにいたのでは、人はその人の真価(仏としての行い)を発揮できないというのです。

だから大変辛い思い(悲しい思い)をさせてしまうが、死という現象を示して、人々が仏のすべてを受け継いでいる、いうなれば子供のようなものだということを分からせるのだというのです。

これで準備が整いました。

私たちという存在は、妙法蓮華経を信じるならば、ご本佛と一体(同化)したそんざいです。

ご本佛は永遠不滅としてこの世に存在し、人々を導いています。

しかしご本佛は、人々の依存・甘えを排除して真価を発揮させるために死を示します。

このご本佛と私たちは一体なのです。

私たちもいずれ必ず死にます。

でもご本佛と一体ならば、私たちの死もご本佛のそれと同じ意義を持ちます。

私たちは力なき存在として、この世に生を受けます。そして力ある者に依存して成長します。

成長した時、今まで力があったものは、今の自分よりも力ないものとなっていることでしょう。そして、死を迎えます。

また成長した時、新たな力なきものを仲間(家族)にするかもしれません。これらの力なきものを見守り、養育するように、または様々な手伝いしながら成長を促すようになるでしょう。

そして養育などが終わり、力なきものが力ある者となった時、私たちは力なきものとなっていることでしょう。立場はきっと逆転しています。

そして終焉を迎えることでしょう。自分より強くなった力がなかった者たちに辛い思いをさせながら。これらの者たちが自分の真価を発揮できるようにするために。

そしてここからは、当教会の信仰の核心です。

こうして去った私たちは、またこの世のどこかに力なきものとして(名前も記憶もなくしてしまいますが…)生まれ変わります。ご本佛が目には見えないけれどこの世に常住しているのです。このご本佛と一体なのですから、生まれ変わって(この世に再び三度と現れて)当然だと信じます。

そしてまた助けられつつ成長し、成長したら力なきものを養育などしていく。そしてこの世を去る。

この繰り返し。

これがご本佛が示したこの世の本来の姿になるまで続きます。お題目信仰は、この世の終わりはこの世がご本佛の示した本来の姿になった時。つまりハッピーエンドです。だれもがお題目信仰によりご本佛と一体化した自分を信じ、この姿に適った行動をしていく。この行動を日々の営みに取り入れていく。

自分のできる範囲で、決して無理をせず。すぐに結果を出そうと焦らずに。

なぜならば、ご本佛と一体だと信仰して、力なきものを養育するとき、この力なきものも信仰の影響を受け、成長したらこの影響の下、養育をしていくことでしょう。

私たちが生まれ変わった世界では、こうして養育されたものが力ある者として、幼く力なきものとして生まれ変わった私たちを養育してくれることでしょう。

私たちも力を得たら、力なきものにこうするでしょう。

このような少しずつの循環で、この世はご本佛の示した本来の世界に戻っていくものと考えています。

お題目信仰によって、このようなこの世と自分の在り方が得られるものと考えています。

当教会が考える「私たちという存在」について、簡単に書いてみました。宗教は心の問題です。皆様一人一人が誰かに頼ることなく自分で考え、信じるという決断をすることで、自分の心の中に強い拠り所をつくるものと考えています。

少しはお役に立てればいいのですが…、まだまだ迷い多き50代に突入した私です…。お彼岸に際しての法施(教えを伝える布施・坊主が行う布施)になっていることを願うものです。

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