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これです。
私たちは、生老病死という生涯を送ります。
生まれ、
年を取り(成長・老化など)、
この間に様々な身体的、精神的苦痛(病)を体験しながら、
いずれこの世を去る
のです。
仏教では、どんな人でもこの生涯から逃れることはできないとします。
確かに!と思います。
なるほど!と仏様の深い洞察力に感心します。
この生涯は一言で言って苦しみの生涯となるでしょう。
生まれてから年を取りつつ、その中で様々な苦痛を受けながら、やがて死ぬというのですから…。
自分一人の有限の人生ならば、この通りなのでしょう…。限られた時間では、どうにもならないことが多いのですから。
ですから、この図を描いてみました。
私たちは生まれた時、幼い・か弱き存在です。だれかの助けを受けなければ生きていけないのです。
だから親身になってくれる力ある者が傍にいるのが一般的です。普通、親という存在がこれにあたるでしょう。
このような存在に助けられ、成長していく。
そして、力ある者へとなっていきます。
その時、親という今まで力ある存在は、力を失っているでしょう。体も記憶も思うようにならず、苦労するようになっていることが多いでしょうから…。
そしてその時を迎えます。
力ある者となった幼き・か弱い私は、この世を去った恩ある者へ何かすることができません。「親孝行、したいときには親はなし」といった状態に陥ります。だからせめて浄土に、天国に生まれ変わってほしいと願うことをします。先祖供養というのは、ここの機微を埋めるための儀式でもあると考えます。
ただこの世を去った者は、再びこの世に生を受けると信じることにします。
再び、か弱き・幼い存在として生を受けると。
このように信じるならば、力を持った私は、このような存在に対して慈しむ・手助けをするという方法で、受けた恩を返すことができます。親から受けた恩は、子供などのまだ力なきものへ返すということです。幼き者たちは、恩を受けた方々の生まれ変わりですから。
今、力を得た私たちも年を取り、病を得て、その時を迎えます。でもその時は、下にいたものが力を得ています。だから安心して、一度この世からお別れできます。
そしてまた幼きものとして生まれ変わり、力ある者から恩を受けます。
この循環を図は示しています。
この恩の循環というのでしょうか…、これを維持していくことで、この世自体もじょじょに良い方向に進んでいくことでしょう。このように思うことができるようになるでしょう。
お題目信仰を継続することにより、このような循環を受け入れられるようになっていきたいものです。
ご参考ください。