私たちには「命」と「魂」があるのではないかと…

人生は100年時代に突入したそうです。まったく実感はわきませんが…、この説に従うならば、私はその半分が過ぎてしまいました。

親や、友人など、それなりの数の身近な関係にある存在の死というものを目にすることが増えたように思います。

20代、30代では、それほど実感しなかった、死。気づけが、本当に身近なものなのだと思うようになったのです。

そして、自分もいつしか、これを体験するのだろうと感じるようにもなったのです。年を重ねた…という事なのでしょうか。

こう感じると、自分の歩いてきた道がなんとも、なんとも中途半端なものだったのではないかと懼れます。ふとした時、懼れが襲ってきます。過去のことは過ぎたこと、もう変更はできないとは知りつつ、不十分だったのではと感じ、懼れずにはいられなくなることがあります。

皆様はどうでしょうか?

こう懼れているにもかかわらず、未だに不十分に道を歩いてしまう自分という矛盾。この矛盾も、自分の心にあるのは否めません。こうしよう、こうするぞと思っていて、できない、否、やらないことがある…。何とも、何とも…です。

命は有限。頭の中ではわかっていて、いつなくなるか分からないのにもかかわらず、未だに体たらくです。

このような私を仏様は、お題目は導いてくれるのでしょうか。これに対して、私は導きがあると信じて疑わないようにしようとする立場です。

ただ有限の命としてのみ私という存在を見た時は、おぼつかないのです。だから、有限の命のほかに「無限の魂」なるものがあると信じていきたいと思っています。

この魂なる無限のものが、永遠の仏様に導かれて、死にかわり、生まれ変わり有限の命を体験しながら、その中で失敗や成功を経験しつつ、じょじょに、じょじょに良くなっていく。このように思っていきたいのです。

私が法華経・お題目信仰を通して、掴みかけている導きの正体といえます。この導きは、焦ることはない、自分のできる範囲で努力していこうと説いているのだと思うのです。そしてこの努力が未来に繋がっていけばいいといっているのだと。そうすれば徐々に良くなっていくからと。

生きているうちに何らかの結果を出したい!こう思うのは自然です。でも年を重ねると、歩んできた道が不十分だったと思うことがあるでしょう。こう思った時、私たちは有限の命とは別に無限の魂があるのだと信じられるならば、少しは心の平安を得て、今に集中できるようになるのではないかと思うのです。

以上書いたことは、あくまで信じる・信じないの問題です。信じられるならば、少しは気が楽になる、焦らなくてもよくなる。こういう効果が多少なりともあるのではないかと思うものです。

法華経・お題目信仰について、私なりの考えを少しだけ書いてみました。有縁の方々、お読みいただき、考えていただければ幸いです。

更新がずいぶん遅れましたこと、お詫び申し上げます。

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