先日、叔父の弔いに参列しました。私とは別の宗派での弔いでした。
そこでお導師が、次のようなお話をされていました。
「ほんの些細なことでいざこざを起こしてしまう私たち人間。だからこの世では、人は人のままであり、仏にはなれない。そこで極楽を目指すのだ。目指す気持ちを表明すれば、誰でも極楽に行ける。ままならない人間が極楽に行けるのだから、すばらしいことだ」
このようなお話であったと思います。
現実を見れば、うまくいかないことばかりです。ほんの少しのことで気を悪くしたり、落ち込んだり、苦しんだりします。
人とのいざこざもありますし、たとえ表立った衝突がなくとも、互いに否定的な感情を抱くこともあるでしょう。このように人と人とが距離を置くことは、日常茶飯事です。
人は人であり、仏様のようにはなれない――。確かにそうかもしれない、と私も思います。
しかし、私たちが生きているのはこの世、この世界です。私たちはこの世界に生まれ、この世界しか知りません。頭の中でさまざまな世界を想像することはできても、現実に存在するのはこの世界だけです。
そう考えると、ここでどうにかするしかないのではないかと思えてきます。人は仏様にはなれないと言われても、お釈迦様はこの世で仏となられました。過去から現在に至るまで、この世に唯一の存在であったとしても、お釈迦様という方が現れたことは確かな事実です。
たとえ極めて難しいことであっても、この世において成仏を果たした人が存在したという事実は、確かにあるのです。
たった一人であっても、この世で成仏した人がいるという現実と、どこにあるのか、本当にあるのかも分からない理想の世界とを比べるならば、私は前者を大切にしたいと思います。
法華経・お題目の教えでは、この世はお釈迦様が永遠に導かれる世界であると説きます。私たちはこの世界において、お釈迦様と共に生まれ変わり、死に変わりを繰り返しているとされます。つまり、お釈迦様と非常に深い縁を結んでいるというのです。
お釈迦様に導かれながら、この世で生まれ変わりと死に変わりを重ね、少しずつ仏様に近づいていく――そのように考えるのです。
その過程で、失敗や過ちを犯すこともあるでしょう。せっかく近づいた仏様への距離を、再び遠ざけてしまうこともあるかもしれません。それでもなお、お釈迦様は私たちを導いてくださる――そのように信じていくのです。
そして、やがて導かれている私たちが、皆そろって成仏というゴールに至るのだと思います。
私はこのような信仰を大切にしています。
だからこそ、亡くなった方もまた、この世に生まれ変わってくると信じています。
興味深いことに、一年は三百六十五日です。
亡くなってから四十九日が四十九日忌。このとき、閻魔大王によって生前の行いが裁かれ、次の生が定まるとされます。また、遺骨をお墓に納める時期でもあり、生前のことを一区切りつける節目ともいえるでしょう。
一年三百六十五日から四十九日を引くと、三百十六日になります。人が生まれるまでの期間は「十月十日」と言われ、これはおよそ十か月余りです。三百十六日は、この十月十日に近い日数です。
四十九日を過ぎてから十月十日ほどを経ると、亡くなってからちょうど一年――一周忌を迎えます。
私は、この頃に故人はこの世のどこかに生まれ変わるのではないかと考えています。この世は広いものですから、どこに生まれ変わるかは分かりません。しかし、故人は再びこの世に生を受け、お釈迦様に導かれていくのだと信じたいのです。
この世とお釈迦様との深いご縁を、心に刻みたい――そのような思いを、弔いに参列して強く感じたのでした。