信仰の核――久遠実成本師釈迦牟尼仏
当教会の信仰の中心にあるのは、久遠実成本師釈迦牟尼仏というご本尊が、常に私たちを導いてくださっていると信じることです。
この点については、あらかじめ一つお断りしておきたいことがあります。
それは、この存在を現代の科学的な見方から「いる・いない」と論じるものではない、ということです。
信仰とは、証明するものではなく、受け取るものです。
ここをはっきりさせておかないと、議論は空回りし、かえって本質から離れてしまうように思います。
大曼荼羅ご本尊のあらわしているもの
宗祖・日蓮大聖人が認められた大曼荼羅ご本尊には、中央に「南無妙法蓮華経」と記され、その左右には仏や菩薩、神々、仏道修行者だけでなく、阿闍世王のような存在までもが記されています。
これは専門的には「六道・四聖」と呼ばれます。
- 六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)
- 四聖(声聞・縁覚・菩薩・仏)
すなわち、あらゆる存在の世界がそこにあらわされているのです。
ここで大切なのは、久遠実成本師釈迦牟尼仏が、それぞれの姿となって現れ、私たち一人ひとりに働きかけておられる、という見方です。

導きのあらわれ方
私たちは、自分の心にすっと入ってくる出来事については、比較的素直に受け取ることができます。
しかし、思い通りにならないことや、受け入れがたい出来事に出会ったとき、それを導きとして受け取ることは容易ではありません。
それでも教えの上では、私たちが出会う人や出来事は、すべて何らかの形で私たちに働きかけているものとして捉えます。
優しい形であれ、厳しい形であれ、ということです。
日常の中での一つの出来事
先日、子どもと出かけたときのことです。
椅子に座って遊ぶ場面でしたが、子どもはあまり椅子を使わず、立ったままでした。その椅子は私たちのすぐ近くにあり、当然自分たちが使うものだと考えていました。
ところが、後から来た若い夫婦と子どもが、何も言わずにその椅子を自分たちの方へ持っていってしまったのです。
一言伝えるべきかとも思いましたが、もめごとになるかもしれないことをするのも避けたく、ためらいがありました。そこで子どもに、「椅子を持っていかれたけれど、いいのか」と尋ねました。
子どもは「なくてもいい」と言いました。
そのため、結果的には何も言わずに済みましたが、どこか釈然としない思いが残りました。
反面教師という導き
この出来事も、ご本尊の導きと受け取ることができるのでしょうか。
すぐにそう思えたわけではありませんが、後から振り返ると、一つの受け取り方が浮かびました。
それは、反面教師としての導きです。
もし自分が同じ立場にあったならば、近くにいる人に一声かけるようにしなさい――そのように教えられているのではないかと感じたのです。私がこの時観じた釈然としない思いを他の人に抱かさないようにと。
また同時に、自分がその場で言葉を発することをためらったことや、釈然としない思いを抱いたことも含めて、何かを気づかせる久遠実成本師釈迦牟尼仏の導きであったのかもしれません。
とはいえ、そう思うことと、それを実際に行えることとの間には、まだまだ隔たりがある自分だということもまた事実です。信仰することの難しさを感じる次第です。
導きの中で生きるということ
ご本尊に導かれているとは、このように日常の出来事の中で、意味を見いだしていくことではないかと思います。久遠実成本師釈迦牟尼仏がすぐ近くで、この私を対象に導いて下さっているのだと実感していくことではないかと思います。
特別な出来事だけではなく、何気ない日々の中においても、「これは自分への働きかけなのかもしれない」と受け取っていくこと。
すぐに納得できることばかりではありませんが、そのように受け取ろうとする姿勢を重ねていく中で、やがて自然にすべてを導きとして受け取れるようになるのではないでしょうか。また久遠実成本師釈迦牟尼仏の大慈大悲の御心を信じられるようになり、人生に安心を持てるようになるのではないでしょうか。
これが、当教会の信仰の目指すところであると考えます。