心が柔軟で、正直に

年を重ねるとは、経験を積むと同義と言えるかと思います。すると経験に裏打ちされて、その人なりの人格が確固としてきます。大切なこととは思うのですが…。

さて、当教会が読誦する経典・妙法蓮華経の中に、有名な「自我偈」という部分があります。この自我偈の中に「柔和質直者 即皆見我身 在此而説法」とあります。「柔和質直なる者は、即ち皆我が身此に在って法を説くと見る」と読みます。

意味するところは、「心に柔軟性があり、他のことをしっかりと慮るような人物であれば、私(仏様)の存在に気づき、その人の現状にふさわしい説法が、まさにそこでなされているのを見るだろう」ということです。

自分のこれまでの生きざまを肯定することは、年齢を重ねるほど強くなるものです。それは真面目に生きてきた証でもあり、否定されるべきものではありません。このように思っています。

ただ――もし今、「人の話を素直に受け取れない」と感じることがあるなら、少しだけ立ち止まってみてもよいのかもしれません。

たとえば、身近な人の言葉に対して「そんなことがあるか」と思ってしまうとき。あるいは、相手が何かを伝えようとしているのに、どこかで聞き流してしまっていると感じるとき。そのような場面に、心当たりはないでしょうか。

私自身も、「あなたは私たちの話を聞かない」と家族に言われることがあります。自分では聞いているつもりなのですが、相手にはそうは届いていないようです。そう思うと、お経に説かれている姿には、まだまだ遠い自分を感じます。

世間でも「話すことより、聞くことが大切だ」と言われます。柔和質直な人とは、人の話をしっかりと受け止め、その考えをすぐに否定しない人のことなのでしょう。

もしそのように人の言葉を受け止めることができたなら――そこに新たな気づき(相手の考えを自分のものにすること)が生まれます。そしてその気づきこそが、仏様の説法に触れている姿なのかもしれません。

この世のすべては仏様の説法によって成り立っている。その教えが、妙法曼荼羅(ご本尊)に顕されているのだと考えています。良い事も悪いことも全て仏様の説法としてみることができるのだと教えて下さっているのだと。

そしてその世界は、遠くにあるものではなく、今ここにあります。

ほんの少し自分を横に置き、目の前の相手の言葉に耳を傾ける。その中に、すでに説法はあるのでしょう。

理想は分かっていても、なかなかその通りにはいかないものです。齢50を過ぎた私自身も、まだまだできていません。…出来るようにも、なかなかなりません…。

それでも、お題目信仰を通して、一歩ずつ近づいていきたい、…いければな…と――(だんだん声が小さくなってしまいますが…)そう思っています。

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