我が浄土(じょうど)は毀(やぶ)れざるに、而も衆は焼け尽きて憂怖(うふ)諸の苦悩、是の如き悉く充満せりと見る。
是の諸の罪の衆生は、悪業(あくごう)の因縁を以て阿僧祇劫を過ぐれども、三宝(さんぽう)の名(みな)を聞かず。
諸の有(あら)ゆる功徳(くどく)を修(しゅ)し、柔和質直(にゅうわしちじき)なる者は、則(すなわ)ち、皆、我が身、此にあって法を説くと見る。或時(あるとき)は此の衆の為に仏寿(ぶつじゅ)無量なりと説く。久しくあって乃し仏を見たてまつる者には、為に仏には値(あ)い難しと説く。我が智力(ちりき)是の如し。慧光(えこう)照(てら)すこと無量に、寿命無数劫(むしゅこう)、久しく業(ごう)を修して得る所なり。
汝等、智(ち)あらん者、此に於て疑(うたがい)を生ずることなかれ。当に断(だん)じて永(なが)く尽きしむべし。仏語は実にして虚しからず。
医(い)の善き方便をもって、狂子(おうじ)を治せんが為の故に、実には在れども而も死すというに、能く虚妄を説くものなきが如く。
我も亦為(こ)れ世(よ)の父、諸の苦患(くげん)を救(すく)う者なり。凡夫(ぼんぶ)の顛倒せるを為(もっ)て、実には在れども而も滅すと言う。常に我を見るを以ての故に、而も憍恣の心を生じ、放逸(ほういつ)にして五欲に著(じゃく)し、悪道(あくどう)の中に墮(お)ちなん。
我、常に衆生の道を行じ道を行ぜざるを知って、度すべき所に隨って為に種々の法を説く。 毎(つね)に自ら是の念を作す。何(なに)を以てか衆生をして無上道に入り、速(すみや)かに仏身(ぶっしん)を成就することを得せしめんと。