諸の善男子、若し衆生あって我が所に来至(らいし)するには、我、仏眼(ぶつげん)を以て其の信等(しんとう)の諸根(しょこん)の利鈍(りどん)を観(かん)じて、度(ど)すべき所に隨(したが)って、処々(しょしょ)に自(みずか)ら名字(みょうじ)の不同(ふどう)・年紀(ねんき)の大小(だいしょう)を説き、亦復現(げん)じて当に涅槃に入るべしと言い、又種々(しゅじゅ)の方便を以て微妙(みみょう)の法を説いて、能(よ)く衆生をして歓喜(かんぎ)の心を発(おこ)さしめき。
諸の善男子、如来、諸の衆生の小法(しょうぼう)を楽(ねが)える徳薄垢重(とくはくくじゅう)の者を見ては、是の人の為(ため)に我少(わか)くして出家(しゅっけ)し阿耨多羅三藐三菩提を得たりと説く。
然るに我実に成仏してより已来久遠(くおん)なること斯(かく)の若(ごと)し。但(ただ)方便を以て衆生を教化して、仏道(ぶつどう)に入(い)らしめんとして是の如き説を作(な)す。
諸の善男子、如来の演(の)ぶる所の経典(きょうてん)は、皆、衆生を度脱(どだつ)せんが為なり。或(あるい)は己身(こしん)を説き、或は他身(たしん)を説き、或は己身を示(しめ)し、或は他身を示し、或は己事(こじ)を示し、或は他事(たじ)を示す。諸の言説(ごんぜつ)する所は皆実にして虚(むな)しからず。