これを以てこれを思うに、爾前(にぜん)の諸経は実事なり、実語なり。華厳経に云く「究竟(くきよう)して虚妄(こもう)を離れ、染(ぜん)なきこと虚空のごとし」。仁王経(にんのうきよう)に云く「源(みなもと)を窮(きわ)め性(しよう)を尽して妙智(みようち)のみ存せり」。金剛般若経(こんごうはんにやきよう)に云く「清浄(しようじよう)の善のみあり」。馬鳴(めみよう)菩薩の起信論(きしんろん)に云く「如来蔵(によらいぞう)の中には清浄の功徳のみあり」。天親(てんじん)菩薩の唯識論(ゆいしきろん)に云く「いわく、余の有漏(うろ)と劣の無漏(むろ)の種とは、金剛喩定現在前(ゆじようげんざいぜん)する時、極円明純浄(ごくえんみようじゆんじよう)の本識(ほんしき)を引く、彼(か)の依(え)にあらざるが故に皆永く棄捨(きしや)す」等云云。
爾前の経々と法華経と、これを校量(きようりよう)するに、彼の経々は無数(むしゆ)なり。時説すでに長し。一仏二言ならば彼に付くべし。馬鳴菩薩は、付法蔵(ふほうぞう)の第十一と仏記(ぶつき)にこれあり。天親は、千部の論師(ろんし)、四依(しえ)の大士(だいし)なり。天台大師は、辺鄙(へんぴ)の小僧(しようそう)にして一論をも宣(の)べず、誰(たれ)かこれを信ぜん。
その上、多きを捨て小(すくな)きに付くとするも、法華経の文分明(もんふんみよう)ならば少しく恃怙(じこ)もあらん。法華経の文の何(いず)れの所にか、十界互具・百界千如・一念三千の分明なる証文これありや。随つて経文を開祏(かいたく)するに、「諸法の中の悪を断ず」等云云。
天親菩薩の法華論(ほつけろん)、堅慧(けんね)菩薩の宝性論(ほうしようろん)にも十界互具これなく、漢土の南北の諸大人師(だいにんし)、日本七寺の末師(まつし)の中にもこの義なし。
ただ、天台一人(いちにん)の僻見(びやつけん)なり。伝教一人の謬伝(びゆうでん)なり。故に清涼(しようりよう)国師の云く「天台の謬(あやまり)なり」。慧苑法師(えおんほつし)の云く「しかれども、天台は小乗を呼んで三蔵教となす。その名謬濫(びゆうらん)するを以て」等云云。了洪(りようこう)が云く「天台も独(ひと)りいまだ華厳の意を尽さず」等云云。得一(とくいつ)の云く「咄(つた)なきかな、智公(ちこう)。汝はこれ誰れが弟子ぞ。三寸に足らざる舌根(ぜつこん)を以て、覆面舌(ふめんぜつ)の所説の教時(きようじ)を謗(そし)る」等云云。弘法大師(こうぼうだいし)の云く「震旦(しんたん)の人師等諍(あらそ)うて醍醐(だいご)を盗み、各自宗(おのおのじしゆう)に名く」等云云。
夫れ一念三千の法門は、一代の権実(ごんじつ)に名目(みようもく)を削り、四依の諸論師もその義を載(の)せず。漢土・日域(にちいき)の人師もこれを用いず。如何(いかん)がこれを信ぜん。
答えて曰く、この難最もはなはだし、最もはなはだし。ただし、諸経と法華との相違は、経文より事起つて分明なり。未顕と已顕と、証明(しようみよう)と舌相と、二乗の成不(じようふ)と、始成(しじよう)と久成(くじよう)と等これを顕わす。
諸論師の事は、天台大師云く「天親・竜樹は内鑒冷然(ないがんれいねん)たり。外(ほか)には時の宜(よろ)しきに適(かな)い、各権(おのおのか)りに拠(よ)る所あり。しかるに人師偏(にんしひとえ)に解(げ)し、学者苟(いやし)くも執し、遂に矢石(しせき)を興し、各(おのおの)一辺を保ち、大に聖道(しようどう)に乖(そむ)けり」等云云。章安大師云く「天竺の大論(だいろん)すらなおその類にあらず。真旦(しんたん)の人師何ぞ労(わずらわ)しく語るに及ばん。これ誇耀(こよう)にあらず。法相(ほつそう)のしかるのみ」等云云。天親・竜樹・馬鳴・堅慧等は内鑒冷然たり。しかりといえども、時いまだ至らざるが故にこれを宣べざるか。
人師においては、天台已前は、あるいは珠を含み、あるいは一向にこれを知らず。已後の人師は、あるいは初にこれを破して後(のち)に帰伏(きぶく)せる人あり。あるいは一向に用いざる者もこれあり。
ただし、「断諸法中悪(だんしよほうちゆうあく)」の経文を会すべきなり。彼は法華経に爾前(にぜん)を載するの経文なり。往(ゆ)いてこれを見よ。経文分明に十界互具これを説く、いわゆる「衆生をして仏知見を開かしめんと欲す」等云云。天台この経文を承(う)けて云く「もし衆生に仏知見なくんば、何ぞ開(かい)を論ずる所あらん。まさに知るべし、仏の知見は衆生に蘊在(うんざい)することを」と云云。章安大師云く「衆生にもし仏の知見なくんば、何ぞ開悟する所あらん。もし貧女(ひんによ)に蔵(くら)なくんば、何ぞ示す所あらんや」等云云。