如来滅後五五百歳始観心本尊抄

問う。正像二千余年の間、四依の菩薩、並に人師等、余仏、小乗・権大乗・爾前・迹門の釈尊等の寺塔を建立すれども、本門寿量品の本尊、並に四大菩薩をば、三国の王臣ともにいまだこれを崇重(そうちよう)せざるの由(よし)これを申す。この事粗(ほぼ)これを聞くといえども、前代未聞の故に耳目を驚動(きようどう)し、心意を迷惑す。請う重ねてこれを説け。委細にこれを聞かん。

答えて曰く。法華経一部・八巻・二十八品(ほん)、進んでは前四味(ぜんしみ)、退いては涅槃経等の一代の諸経、惣じてこれを括(くく)るにただ一経なり。始め寂滅道場より終り般若経に至るまでは序分なり。無量義経・法華経・普賢経の十巻は正宗(しようしゆう)なり。涅槃経等は流通分(るつうぶん)なり。

正宗の十巻の中において、また序・正(しよう)・流通あり。無量義経並に序品は、序分なり。方便品より分別功徳品の十九行の偈に至るまでの十五品半は、正宗分なり。分別功徳品の現在の四信(ししん)より普賢経に至るまでの、十一品半と一巻とは、流通分なり。

また法華経等の十巻においても、二経あり。おのおの序・正・流通を具するなり。無量義経・序品は序分なり。方便品より人記品(にんきほん)に至るまでの八品は、正宗分なり。法師品(ほつしほん)より安楽行品(あんらくぎようほん)に至るまでの五品は流通分なり。その教主を論ずれば始成正覚(しじようしようがく)の仏。本無今有(ほんむこんぬ)の百界千如を説いて、已・今・当に超過せる随自意・難信難解の正法なり。過去の結縁(けちえん)を尋ぬれば、大通(だいつう)十六の時、仏果(ぶつか)の下種(げしゆ)を下(くだ)し、進んでは、華厳経等の前四味を以て助縁(じよえん)となして、大通の種子(しゆうじ)を覚知せしむ。これは仏の本意にあらず。ただ毒発(どくほつ)等の一分(いちぶん)なり。二乗・凡夫等は、前四味を縁となして、漸々(ぜんぜん)に法華に来至(らいし)して種子を顕わし、開顕を遂ぐるの機これなり。また在世において始めて八品を聞く人(にん)・天(てん)等は、あるいは一句・一偈等を聞いて下種となし、あるいは熟し、あるいは脱し、あるいは普賢・涅槃等に至り、あるいは正・像・末(まつ)等に、小(しよう)・権(ごん)等を以て縁となして法華に入る。例せば在世の前四味の者のごとし。

また本門十四品の一経に序・正・流通あり。涌出品(ゆじゆつぽん)の半品(はんぽん)を序分となし、寿量品(じゆりようほん)と前後の二半と、これを正宗となし、その余は流通分なり。その教主を論ずれば、始成正覚の釈尊にあらず。所説の法門もまた天地のごとし。十界久遠(じつかいくおん)の上に、国土世間すでに顕る。一念三千殆ど竹膜(ちくまく)を隔てたり。また迹門並に前四味、無量義経・涅槃経等の三説は、悉く随他意・易信易解、本門は三説の外(ほか)の難信難解・随自意なり。

また本門において序・正・流通あり。過去大通仏(だいつうぶつ)の法華経より、乃至現在の華厳経、乃至迹門十四品、涅槃経等の一代五十余年の諸経、十方三世(さんぜ)の諸仏の微塵の経々(きようぎよう)は、皆寿量の序分なり。一品二半(いつぽんにはん)よりの外は、小乗教・邪教・未得道教(みとくどうきよう)・覆相教(ふそうきよう)と名く。その機を論ずれば、徳薄(とくはく)・垢重(くじゆう)・幼稚・貧窮(びんぐ)・孤露(ころ)にして、禽獣に同ずるなり。爾前迹門の円教(えんぎよう)すらなお仏因にあらず。いかにいわんや大日経等の諸の小乗経をや。いかにいわんや華厳・真言等の七宗等の論師(ろんし)・人師の宗をや。与えてこれを論ずれば、前三教(ぜんさんぎよう)を出でず。奪つてこれを云えば蔵(ぞう)・通(つう)に同ず。たとい法は甚深(じんじん)なりと称すとも、いまだ種(しゆ)・熟(じゆく)・脱(だつ)を論ぜず。還(かえ)つて灰断(けだん)に同じ。化(け)に始終なしとは、これなり。譬えば、王女(おうによ)たりといえども、畜種を懐妊すれば、その子なお旃陀羅(せんだら)に劣れるがごとし。これらはしばらくこれを閣(お)く。

迹門十四品、正宗八品、一往(いちおう)これを見るに二乗を以て正(しよう)となし、菩薩・凡夫を以て傍(ぼう)となす。再往(さいおう)これを勘(かんが)うれば、凡夫、正・像・末を以て正となす。正・像・末の三時の中にも、末法の始(はじめ)を以て正が中の正となす。