閑かなる処に在って其の心を修摂し安住して動(どう)せざること須弥山(しゅみせん)の如くせよ。一切の法を観ずるに皆所有無し。猶お虚空の如し。堅固(けんご)なること有ること無し。不生なり不出なり。不動なり不退(ふたい)なり。常住にして一相(いっそう)なり。是れを近処と名く。
若し比丘あって我(わ)が滅後に於て是の行処及び親近処に入って、斯の経を説かん時には 怯弱(こうにゃく)有ることなけん。
菩薩、時(とき)あって静室(じょうしつ)に入り、正憶念(しょうおくねん)を以て義に隨って法を観じ、禅定より起(た)って諸の国王・王子・臣民(しんみん)・婆羅門等(ばらもんとう)の為に開化(かいけ)し演暢(えんちょう)して斯(こ)の経典(きょうてん)を説かば、其の心(こころ)安穏(あんのん)にして怯弱有ることなけん。文殊師利、是れを菩薩の初の法に安住して能く後の世に於て法華経を説くと名く。
又、文殊師利、如来(にょらい)の滅後(めつど)に末法(まっぽう)の中(なか)に於て是の経を説かんと欲せば、安楽行(あんらくぎょう)に住(じゅう)すべし。若しは口に宣説(せんぜつ)し若しは経を読まん時、楽って人及び経典の過(とが)を説かざれ。亦、諸余(しょよ)の法師(ほっし)を軽慢(きょうまん)せざれ。佗人(たにん)の好悪長短(こうあくちょうたん)を説かざれ。声聞の人に於て亦(また)名を称(しょう)して其の過悪(かあく)を説かざれ。亦、名を称して其の美(うつくし)きを讃歎(さんだん)せざれ。又亦、怨嫌(おんけん)の心を生ぜざれ。
善(よ)く是の如き安楽の心を修(しゅ)するが故に、諸の聴(き)くことあらん者、其の意(こころ)に逆(さから)わじ。
難問(なんもん)する所あらば小乗の法を以て答(こた)えざれ。但、大乗(だいじょう)を以て為に解説(げせつ)して一切種智(いっさいしゅち)を得せしめよ。