衣服(えぶく)・臥具(がぐ)・飲食(おんじき)・医薬(いやく)、而(しか)も其の中に於て悕望(けもう)する所なかれ。但一心に説法の因縁を念じ、仏道を成(じょう)じて衆(しゅう)をして亦(また)爾(しか)ならしめんと願(ねが)うべし。是れ則ち大利(だいり)安楽(あんらく)の供養(くよう)なり。
我が滅度の後に、若し比丘あって能く斯(こ)の妙法華経を演説せば、心に嫉恚(しんに)・諸悩障礙(しょうのうしょうげ)無く、亦、憂愁(うしゅう)及び罵詈(めり)する者なく、 又、怖畏し刀杖(とうじょう)を加(くわ)えらるる等(とう)なく、亦、擯出(ひんずい)せらるることなけん。忍(にん)に安住するが故に、智者(ちしゃ)是の如く善く其の心を修せば、能く安楽に住すること我が上(かみ)に説くが如くならん。其の人の功徳は、千万億劫(せんまんのっこう)に算数譬喩(さんじゅひゆ)をもって説くとも尽(つ)くすこと能(あた)わじ。
又、文殊師利、菩薩摩訶薩よ、後の末世(まっせ)の法滅(ほうめつ)せんと欲せん時に於て、斯の経典を受持(じゅじ)し読誦せん者は、嫉妬(しっと)・諂誑(てんのう)の心を懐くことなかれ。亦、仏道を学する者を軽罵(きょうめ)し、其の長短(ちょうたん)を求むることなかれ。若し比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の声聞を求むる者、辟支仏(ひゃくしぶつ)を求むる者、菩薩の道を求むる者、之(これ)を悩(なや)まし其れをして疑悔(ぎけ)せしめて、其の人に語(かた)って汝等(なんだち)道(みち)を去(さ)ること甚(はなは)だ遠(とお)し、終(つい)に一切種智を得ること能わじ。所以(ゆえ)は何(いか)ん。汝(なんじ)は是れ放逸(ほういつ)の人なり。道に於て懈怠なるが故にと言うこと得ることなかれ。