撰時抄

正法(しようぼう)一千年の後、像法(ぞうぼう)に入つて一十五年と申せしに、仏法東に流れて漢土(かんど)に入りにき。

像法の前五百年の内、始の一百余年が間は、漢土の道士(どうし)と月氏の仏法と諍論(じようろん)していまだ事さだまらず。たとひ定まりたりしかども、仏法を信ずる人の心いまだふかからず。しかるに仏法の中に大小・権実(ごんじつ)・顕密(けんみつ)をわかつならば、聖教(しようぎよう)一同ならざる故、疑(うたがい)をこりて、かへりて外典(げてん)とともな(伴)う者もありぬべし。これらのをそれあるがのゆへに、摩騰(まとう)・竺蘭(じくらん)は自(みずか)らは知つてしかも大小を分けず、権実をいはずしてやみぬ。

その後、魏(ぎ)・晋(しん)・宋(そう)・斉(せい)・梁(りよう)の五代が間、仏法の内に大小・権実・顕密をあらそひし程に、いづれこそ道理ともきこえずして、上(か)み一人(いちじん)より下(し)も万民(ばんみん)にいたるまで不審すくなからず。