その後(のち)人王第五十代、像法八百年に相当(あいあた)つて桓武(かんむ)天皇の御宇(ぎよう)に、最澄(さいちよう)と申す小僧出来(しようそうしゆつたい)せり。後(のち)には伝教(でんぎよう)大師と号したてまつる。
始には三論・法相・華厳・倶舎・成実・律の六宗並に禅宗等を行表(ぎようひよう)僧正等に習学せさせ給ひし程に、我(われ)と立て給へる国昌寺(こくしようじ)、後には比叡山(ひえいざん)と号す。
ここにして六宗の本経・本論と宗々の人師(にんし)の釈とを引合(ひきあわ)せて御らむありしかば、彼(か)の宗々の人師の釈、所依(しよえ)の経論に相違せる事多き上、僻見(びやつけん)多々にして、信受せん人皆悪道に堕(お)ちぬべしとかんがへさせ給ふ。
その上法華経の実義は、宗々の人々我(われ)も得(え)たり得たりと自讃ありしかども、その義なし。これを申すならば喧嘩出来(けんかしゆつたい)すべし。もだ(黙)して申さずば仏誓(ぶつせい)にそむきなんと、をもひわづらわせ給ひしかども、終(つい)に仏の誡(いましめ)ををそれて、桓武(かんむ)皇帝に奏し給ひしかば、帝(みかど)この事ををどろかせ給ひて、六宗の碩学(せきがく)に召し合させ給ふ。