撰時抄

また日蓮法華経の行者ならずば、いかなる者の一乗(いちじよう)の持者(じしや)にてはあるべきぞ。

法然(ほうねん)が法華経をなげすてよ、善導(ぜんどう)が「千中無一(せんちゆうむいち)」、道綽(どうしやく)が「未有一人得者(みういちにんとくしや)」と申すが法華経の行者にて候べきか。また弘法(こうぼう)大師の云く、「法華経を行(ぎよう)ずるは戯論(けろん)なり」とかゝれたるが法華経の行者なるべきか。

経文には「能持是経(のうじぜきよう)」「能説此経(のうせつしきよう)」なんどこそとかれて候へ。よくとくと申すはいかなるぞと申すに、「於諸経中最在其上(おしよきようちゆうさいざいごじよう)」と申して、大日経(だいにちきよう)・華厳(けごん)経・涅槃(ねはん)経・般若(はんにや)経等に法華経はすぐれて候なりと申す者をこそ、経文には法華経の行者とはとかれて候へ。

もし経文のごとくならば、日本国に仏法わたて七百余年、伝教大師と日蓮とが外(ほか)は、一人(いちにん)も法華経の行者はなきぞかし。

いかにいかにとをもうところに、「頭破作七分(ずはさしちぶ)」「口則閉塞(くそくへいそく)」のなかりけるは、道理にて候けるなり。これらは浅き罰(ばち)なり。ただ一人二人(いちにんににん)等のことなり。