撰時抄

問うて云く、伝教大師は日本国の士(ひと)なり。桓武(かんむ)の御宇(ぎよう)に出世して、欽明(きんめい)より二百余年が間の邪義をなんじやぶり、天台大師の円慧・円定を撰し給ふのみならず、鑑真和尚の弘通せし日本小乗の三処(さんしよ)の戒壇をなんじやぶり、叡山に円頓(えんどん)の大乗別受戒(べつじゆかい)を建立せり。

この大事は仏滅後一千八百年が間の身毒(けんどく)・尸那(しな)・扶桑(ふそう)乃至(ないし)一閻浮提第一の奇事(きじ)なり。

内証(ないしよう)は竜樹・天台等には、或は劣るにもや、或は同じくもやあるらん。仏法の人をすべ(統)て一法となせる事は、竜樹・天親(てんじん)にもこえ、南岳(なんがく)・天台にもすぐれて見えさせ給ふなり。

惣じては如来御入滅の後(のち)一千八百年が間、この二人こそ法華経の行者にてはをはすれ。故に秀句(しゆうく)に云く、〔「経に云く、もし須弥(しゆみ)を接(と)りて他方無数(むしゆ)の仏土に擲(な)げ置かんも、またいまだこれ難(かた)しとせず。乃至(ないし)、もし仏の滅後に悪世の中において、よくこの経を説かん。これすなわちこれ難し等云云。