撰時抄

真言宗(しんごんしゆう)と申すは上(かみ)の二つのわざわひにはにるべくもなき大僻見(だいびやつけん)なり。あらあらこれを申すべし。

いわゆる大唐の玄宗皇帝(げんそうこうてい)の御宇(ぎよう)に、善無畏(ぜんむい)三蔵・金剛智(こんごうち)三蔵・不空(ふくう)三蔵、大日経・金剛頂(こんごうちよう)経・蘇悉地(そしつち)経を月支(がつし)よりわたす。この三経の説相分明(せつそうふんみよう)なり。その極理(ごくり)を尋ぬれば会二破二(えにはに)の一乗、その相を論ずれば印(いん)と真言(しんごん)と計(ばか)りなり。なお華厳(けごん)・般若(はんにや)の三一相対の一乗にも及ばず。天台宗の爾前(にぜん)の別(ベつ)・円(えん)程もなし。ただ蔵(ぞう)・通(つう)二教を面(おもて)とす。

しかるを善無畏三蔵をもわく、この経文を顕(あら)わにいゐ出(いだ)す程ならば、華厳・法相(ほつそう)にもをこつかれ、天台宗にもわらわれなん。大事として月支(がつし)よりは持来(もちきた)りぬ。さてもだせば本意(ほんい)にあらずとやをもひけん。

天台宗の中に一行(いちぎよう)禅師という僻人一人(びやくにんいちにん)あり。これをかたらひて漢土の法門をかたらせけり。一行阿闍梨(あじやり)うちぬかれて、三論・法相・華厳等をあらあらかたるのみならず、天台宗の立てられけるやうを申しければ、善無畏をもはく、天台宗は天竺にして聞(きき)しにもなをうちすぐ(勝)れて、かさむべきやうもなかりければ、善無畏は一行をうちぬひて云(いわ)く、和僧(わそう)は漢土にはこざかしき者にてありけり。天台宗は神妙(しんみよう)の宗なり。今(いま)真言宗の天台宗にかさむところは、印と真言と計りなり、といゐければ、一行さもやとをもひければ、善無畏三蔵一行にかた(語)て云く、天台大師の法華経に疏(じよ)をつくらせ給へるごとく、大日経の疏を造りて真言を弘通(ぐずう)せんとをもう。汝かきなんや、といゐければ、一行が云く、やすう候。