疑ふて云く、法華経を真言に勝(すぐ)ると申す人はこの釈をばいかんがせん。用ふべきか、またすつべきか。
答ふ、仏の未来を定めたまうに云く、〔「法に依りて人に依らざれ」〕。竜樹(りゆうじゆ)菩薩云く、〔「修多羅(しゆたら)に依るは白論(びやくろん)なり。修多羅に依らざるは黒論なり」〕。天台云く、〔「また修多羅と合(がつ)せば録してこれを用ふ。文(もん)なく義(ぎ)なきは信受すべからず」〕。伝教大師云く、〔「仏説に依憑(えびよう)して、口伝を信ずることなかれ」〕等と云云。
これらの経・論・釈のごときんば、夢を本(もと)にはすべからず。ただついさして法華経と大日経との勝劣を、分明(ふんみよう)に説きたらん経論の文こそたいせちに候はめ。
ただし印・真言なくば木画(もくえ)の像の開眼(かいげん)の事、これまたをこの事なり。真言のなかりし已前には木画の開眼はなかりしか。天竺(てんじく)・漢土(かんど)・日本には真言宗已前の木画の像は或(あるい)は行(い)き、或は説法し、或は御物語(おんものがたり)あり。印・真言をもて仏を供養せしよりこのかた、利生(りしよう)もかたがた失(うせ)たるなり。これは常の論談の義なり。
この一事(いちじ)にをいては、ただし日蓮は分明(ふんみよう)の証拠を余所(よそ)に引くべからず。慈覚大師の御釈を仰いで信じて候なり。
問うて云く、何(いか)にと信ぜらるるや。
答へて云く、この夢の根源は、真言は法華経に勝(すぐ)ると造り定めての御ゆめなり。この夢吉夢(きちむ)ならば、慈覚大師の合(あわ)せさせ給ふがごとく真言勝(すぐ)るべし。