世尊、この法門とは号(な)を何等と字(なづ)くる。その義いかん。菩薩いかんが修行せん。
仏の言わく、
善男子、この一の法門をば名づけて無量義となす。菩薩、無量義を修学することを得んと欲せば、当に一切諸法は自ずから本(ほん)・来(らい)・今(こん)、性相空寂(しょうそうくうじゃく)にして、無大(むだい)・無小(むしょう)・無生(むしょう)・無滅(むめつ)・非住(ひじゅう)・非動(ひどう)・不進(ふしん)・不退(ふたい)、猶、虚空のごとく二法あることなしと観察すべし。
而(しか)るにもろもろの衆生、虚妄に是(これ)は此(し)、是(これ)は彼(ひ)、是は得、是は失と横計(おうけい)して、不善の念を起こし、もろもろの悪業を造って六趣(ろくしゅ)に輪廻し、もろもろの苦毒を受けて無量億劫(むりょうおっこう)、自ら出(い)ずること能(あた)わず。
菩薩摩訶薩、是(かく)の如く諦(あき)らかに観じて、憐愍(れんみん)の心を生じ、大慈悲を発(おこ)してまさに救抜(くばつ)せんと欲し、又復(またまた)深く一切の諸法に入(い)れ。
法の相、是(かく)の如くして、是の如き法を生ず。法の相、是の如くして、是の如き法を住す。法の相、是(かく)の如くして、是の如き法を異(い)す。法の相、是(かく)の如くして、是の如き法を滅す。法の相、是(かく)の如くして、よく悪法を生ず。法の相、是(かく)の如くして、よく善法を生ず。住・異・滅も亦復(またまた)是の如し。
菩薩、是の如く四相(しそう)の始末を観察して悉(ことごと)く遍(あまね)く知りおわって、次(つぎ)に復(また)諦(あきら)かに一切の諸法は念念に住せず、新新(しんしん)に生滅すと観じ、復、即時に生・住・異・滅すと観ぜよ。是の如く観じおわって、衆生のもろもろの根性欲(こんじょうよく)に入る。
性欲(しょうよく)無量なるがゆえに説法無量なり。説法無量なるがゆえに義も亦無量なり。
無量義とは一法より生ず。その一法とは即ち無相なり。是の如き無相は相なく相ならず、相ならずして相なきを名づけて実相とす。
菩薩摩訶薩、是の如き真実の相に安住しおわって、発する所の慈悲、明諦(みょうたい)にして虚しからず。衆生の所において、真(まこと)によく苦を抜く。苦すでに抜きおわって、快楽(けらく)を受けしむ。善男子、菩薩もしよく是の如く一切の法門・無量義を修(しゅ)せん者、必ず疾く阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得ん。
善男子、是の如き甚深にして無上大乗の無量義は、文理真正(もんりしんしょう)に尊にして過上(かじょう)なし。三世(さんぜ)の諸仏の守護したもう所なり。衆魔羣道(しゅうまぐんどう)得入(とくにゅう)することあることなく、一切の邪見生死に壊敗(えはい)せられず。この故に善男子、菩薩摩訶薩、もし疾く無上菩提を成ぜんと欲せば、当に是の如き甚深無上大乗無量義経を修学すべし。