是(こ)れ我等が咎(とが)なり。世尊には非(あら)ず。所以は何ん。若し我等、所因(しょいん)の阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を成就(じょうじゅ)することを説きたもうを待たば、必ず大乗を以て度脱(どだつ)せらるることを得ん。然(しか)るに我等、方便隨宜(ほうべんずいぎ)の所説を解(さと)らずして、初め仏法を聞いて遇(たまたま)便(すなわち)ち信受(しんじゅ)し、思惟(しゆい)して証(しょう)を取れり。
世尊、我、昔より来(このかた)、終日(ひねもす)竟夜(きょうや)、毎に自ら剋責(こくしゃく)しき。而(しか)るに今、仏に従いたてまつりて、未だ聞かざる所の未曽有の法を聞いて、諸の疑悔(ぎけ)を断(だん)じ、身意泰然(しんにたいねん)として快(こころよ)く安穏なることを得たり。今日(こんにち)乃(すなわ)ち知んぬ。真に是れ仏子なり。仏口(ぶっく)より生じ、法化(ほうけ)より生じて、仏法の分を得たり。