開目抄(かいもくしょう)

しかるに法華経の第五の巻(まき)勧持品の二十行の偈は、日蓮だにもこの国に生(うま)れずは、ほとをど世尊は大妄語の人、八十万億那由佗の菩薩は提婆が虚誑罪(こおうざい)にも堕(おち)ぬべし。経に云く「有諸無智人悪口罵詈等(うしよむちにんあつくめりとう)」、「加刀杖瓦石(かとうじようがしやく)」等云云。

今の世を見るに、日蓮より外の諸僧、たれの人か法華経につけて諸人に悪口罵詈せられ、刀杖等を加(くわえ)らるる者ある。日蓮なくばこの一偈(いちげ)の未来記は妄語となりぬ。
「悪世(あくせ)の中(うち)の比丘(びく)は邪智(じやち)にして心諂曲(てんごく)に」。また云く「白衣(びやくえ)のために法を説いて、世に恭敬(くぎよう)せらるること六通の羅漢のごとくならん」。これらの経文は、今の世の念仏者・禅宗・律宗等の法師(ほつし)なくば世尊はまた大妄語の人、「常に大衆(だいしゆ)の中(うち)に在つて、乃至国王・大臣・婆羅門居士に向つて」等、今の世の僧等日蓮を讒奏(ざんそう)して流罪(るざい)せずばこの経文むなし。
また云く「数々擯出(しばしばひんずい)せられん」等云云。日蓮、法華経のゆえに度々(たびたび)ながされずば数々(さくさく)の二字いかんがせん。この二字は天台・伝教もいまだよみ給はず。いわんや余人をや。末法の始(はじめ)のしるし、「恐怖悪世中(くふあくせちゆう)」の金言(きんげん)のあふゆへに、ただ日蓮一人(いちにん)これをよめり。例せば世尊が付法蔵経(ふほうぞうきよう)に記(き)して云く、「我(わが)滅後一百年(いちひやくねん)に阿育(あいく)大王という王あるべし」。摩耶経(まやきよう)に云く「我滅後六百年に竜樹菩薩という人南天竺(なんてんじく)に出(いづ)べし」。大悲経に云く、「我滅後六十年に末田地(までんだい)という者地を竜宮につ(築)くべし」。これら皆仏記(ぶつき)のごとくなりき。しからずば誰(たれ)か仏教(ぶつきよう)を信受すべき。しかるに仏、「恐怖悪世(くふあくせ)」「然後未来世(ねんごみらいせ)」「末世法滅時(まつせほうめつじ)」「後五百歳」なんど正(しよう)・妙(みよう)の二本に正(まさ)しく時を定めたもう。

当世(とうせい)法華の三類の強敵(ごうてき)なくば誰(だれ)か仏説を信受せん。日蓮なくば誰をか法華経の行者として仏語(ぶつご)をたすけん。南三北七、七大寺(しちだいじ)等なお像法(ぞうぼう)の法華経の敵(かたき)の内(うち)、いかにいわんや当世の禅・律・念仏者等は脱(のがる)べしや。経文に我が身普合(ふごう)せり。御(ご)勘気(かんき)をかほ(蒙)ればいよいよ悦(よろこ)びをますべし。
例せば小乗の菩薩の未断惑(みだんわく)なるが「願兼於業(がんけんおごう)」と申して、つくりたくなき罪なれども、父母等の地獄に堕(おち)て大苦(だいく)をうくるを見て、かたのごとくその業(ごう)を造(つくり)て、願(ねがつ)て地獄に堕(おち)て苦(くるしみ)に同(どう)じ、苦に代(かわ)れるを悦(よろこ)びとするがごとし。これもまたかくのごとし。当時の責(せめ)はたう(堪)べくもなけれども、未来の悪道(あくどう)を脱(だつ)すらんとをもえば悦ぶなり。